楳図かずお『洗礼』感想  




この作品の素晴らしさは、情景描写の素晴らしさもさることながら、恐怖の根底の、最も人間らしさを、まさにえぐり出し、並べて、白昼のもとにさらけ出している点にあります。
 この作品の主人公は母親と娘です。主人公の女性は、絶世の美女とされたかつての大女優・若草いずみ若い頃はそれで良かったのですが、しだいに「しわ」や「あざ」が気になるようになります。自分の顔や体が変化していくことが怖くなります。そこで彼女は、「トンでもないこと」を思いつきます。自分の脳を、自分の娘に移し替えることができれば、改めて若い肉体と美貌のもとで生きていけるのではないか?そしてそのような手術を実行しようとします。
 しばらくして若草いずみは、子どもを出産します。娘の名は「さくら」 母親がさくらを育てるのは、一定の年齢になった時に、脳の移植手術をするためです。娘の顔に傷がついたら大変です。当初、さくらは、自分の母親が優しいのかと思っているのですが、そうではなかったのです。ある日、母親の計画に気付いてしまいます。おかあさん!まさか!しかし母親は否定するどころか、「お前はそのために産んだのよ」と開き直ります。
 怖い。なにかとてつもなく怖い。この怖さはどこからくるのでしょうか?美しくなりたいという気持ち、自分の身体の一部を切り離し、新しい部品(臓器)を取り換えようとする意思、自分の子どもを、なんらかの目的のための手段としてとらえようとする意思それらは全て、自然な人間の欲望です。それ自体は、決して珍しいことではありません。わたしたちは、この母親のやろうとしていることの願いは、分かってしまうのです。それゆえ怖いのです。どこか遠くから化け物がやってくるのであれば、ミサイルやサーベルで退治すればいいのです。もし負けることがあったとしても、心の中まで襲っては来ないのです。しかしこの化け物は、わたしたち人間なのです。それゆえこの化け物からは逃れられないのです。「あの人は変人だ!」「あの人は狂っている!」そういって片づけることが出来ないのです。
 母親の脳は、娘の頭の中へ移植されます。手術後、娘は全くの別人のようになってしまいました。仲の良かった友達や何人かの周囲の人々が「彼女は別人のようになってしまった」と気付きます。しかし手術のことは発覚することなく、日々が過ぎていきます。娘は、新しい人生を謳歌しようと、次の計画を進めます。それは、担任の男性教諭のお嫁さんになること!でした。「男性教諭の娘となって養育してもらう」のではなく、「男性教諭の妻となって幸せに生きていく」というのです。年齢差がありすぎます!おや、と思うかもしれませんが、これは伏線です。娘は、男性教諭の妻になるために、策略を使い、現在の妻を退け、夫婦ごっこを始めようとします。この男性教諭が不審に思って事態を追求します。そして事態を把握した上で、一つの事実を知ることになります。それは手術にあたった医師は既に死んでいたということでした。すなわち実は手術は「なされなかった」のです。さくらは幻覚を見ていたのです。母親の脳が娘に移植されたのではなく、移植されたと信じ切っていた娘が、母親の心境となって行動していたのです。全部夢でした、チャンチャン、という夢オチではありません。確かにそこで描かれていることは現実にはありえないことなのかもしれません。しかしそこで描かれている人間性そのものは、紛れもなくわたしたちの真の人間性なのです。
 なぜこんなことになってしまうのでしょうか?娘は、母親を憎むどころか、母親の願いや悲しみも全て吸収したのです。「欲望は他者からやってくる」ある学者はそう言いました。子どもは自分というものを形成した後で、親のことを好きになるのではありません。親のことが好きであるという前提で、少しずつ自分を形成していくのです。子どもは、親の考えや価値観、世界観の中で生きることを目指します。子どもは、親がいわんとしていることを先回りして言おうとします。親が喜ぶことを自ら進んで言おうとします。この「入れ物」ではうまく生きていけないと思うと、やっとそこから抜けだします。そこで得るのが自我です。親を否定すること、全てを疑い、全てを破壊することで自分を手にできます。しかし小学生では難しい。娘さくらは、母親・若草いずみの全てを受け入れようとしていたのです。狂気じみた母親であっても、母親なのです。(児童虐待を受けた子は「悪いのは自分だった」と言います。)見たくないものかもしれませんが、やはりこれは人間の本性なのです。医師が再び登場します。医師は、さくらにしか見えていません。さくらは男性教諭から「手術されなかった」という事実を聞かされると、その時に目の前の医師を疑い始めます。そして医師は、叫びながら消えていきます。呆然とする娘は、そのまま、しばらくは「無の時間」を過ごします。再び本当の自分に戻るためには長い時間が必要でしょう。男性教諭の妻になるという計画は、母親・若草いずみの頭脳であったのならば、考え付かなかったことだと思います。さくらは、母の心境になりかわって生きようとするのですが、「担任の男性教諭への憧れ」という部分だけは、「さくら」の精神によるものだったのです。(小学館、1974年~1976年作品。)
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Posted on 2011/10/26 Wed. 21:22 [edit]

category: 漫画

thread: 漫画 - janre: アニメ・コミック

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コメント

コメントありがとうございます。

沢尻エリカのヘルタースケルターも、同じような方向性だと聞きます。最も怖いのは、幽霊よりも怪物よりも、人間なのだと感じます。今後もコメントお願いします。

URL | ごんたろう #79D/WHSg
2013/05/03 20:54 | edit

永遠のライバル

女の性の酷さを鮮やかに抉るように描かれていますね。

楳図さんのチャーミングな印象と作品の秀逸さとの見事なギャップ。

正に芸術家なのだと感服致します。

URL | ベラスケス #79D/WHSg
2013/05/01 14:41 | edit

はじめまして
私は終盤近くになつて作者が設定を変えだのではと思ってます。
さくらが語ったいずみの過去は?
其れと手術道具は、松子は看護師の資格でもあったの?
注射とか…
さくらが良子に話した松子の…若草いずみの過去は
本人でしか知りえない事ばかりです。さくらの母親は土の中に埋められて、
でも生きていた
窒息せずに?何日土の中に居たのか?
1週間程誰も居ないみたいな状態になってた様だから。
飲まず食わずでどれ位?
心なしか痩せてたみたいけど。
そのキャラクターを死なす設定だけど変えたと言う話しも聞きますし。
さくらの語ったいずみの過去と、松子が土の中窒息する事なく、
何日も飲まず食わずで生きてたのを考えると
まぁ、さくらは生きてたんだから良いけど〜。
いずみになりきったさくらが、先生の奥さんや赤ちゃんにした事
先生への憧れがあってもあそこ迄は…
さくらの潜在意識と言うよりは、娘の身体命人生を平気で奪おう
としてた松子の人格になりきってたからでは。
コメントは長くなりましたが。




URL | ミント #oJbzgH2U
2018/07/04 12:27 | edit

ありがとうございます。

ミントさん。
いろんな視点から興味深いコメントありがとうございます。
もう一度読んでみたくなりました。
これからもよろしくお願いします。

URL | いもむしごんたろう #-
2018/07/07 00:34 | edit

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