「ガンバの冒険」感想(5)  

5)登場人物の強烈な個性、そして成長
 本作品ではそれぞれのキャラクターの個性が光っています。とてもよく考えられていると思います。少し振り返ってみましょう。
 ガンバは、とにかく強いことを自慢したいし、可能性を追求したい。無駄なほどに明るくて元気という「幼児性」のようなものがありました。その意味では視聴者の多くはガンバに共感しながら見たと思われます。ガンバは見通しをつけたり、冷静に考えたりといったことは苦手です。しかし途中で何度が挫折しそうになった時に、周囲に助けてもらうのです。(6話では海に流されそうになったところをヨイショに助けてもらう。10話では痙攣で動けなくなったところをシジンに助けてもらう。15話、瀕死の状態でガンバは仲間たちを思い出す。)結局、このような過程を経て、仲間思い、みんなのために頑張るというその姿になっていく。
 それに比べるとヨイショは随分と冷静です。みんなの兄貴分といったところでしょうか。どっしりしていて自信に満ちていました(ただ、舟を操ったり海を泳いだりすることは得意ですが、高いところは苦手でした)。ヨイショはそれまで涙を流すなんてことは殆ど無かったはずです。そんな彼が涙を流す印象的なシーンが20話です。ノロイがネズミたちを嘲笑しているのを見て、彼は怒りとともに悔し涙を流すのです。いつでも殺せる、ゆっくり殺そう、薄汚いネズミたち。彼にとってはこれまでの長旅で多くの困難を克服してきたという自負があります。自分に対する自信というよりは、ネズミたち全員が弱さを補い合い、力を合わせ、そして時にはケンカや対立を乗り越えてきたという自信です。それが軽く扱われたことにどうしようもない悔し涙を流しているのだと思います。
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 イカサマは、最初は他人行儀、カッコつけるだけで、見下しているような雰囲気さえありました。ニヒルというか、皮肉屋というか、悪口を言ってみたり、あきれた表情を見せたりすることもありました。ちょっと変わったワルな兄ちゃんといった雰囲気でしょうか。その一方で、戦いの際には知性を発揮します。敵の目をこちらに引きつけている間に他のみんなを助けよう、等というアイデアは、イカサマがよく出していました(14話や16話あたり)。何か変だぞと気づくのも早いのです(18話、23話)。そんなイカサマですが、後半になってぐっと深みが出てきます。イカサマが一郎の死を酷く悲しむのはなぜでしょうか。一郎の命がけの姿に感動し、敬意を払っているのです。そして兄(太一)の命がけの行動にも感動し、敬意を払う。それゆえあれだけ涙を流すのです。この旅の中でイカサマはずいぶんと成長したと思います。最終話でガンバの死に直面したイカサマは、笑いながら海の水で顔を洗います。ノロイを倒したという達成感や喜びと大切な仲間を失った悲しみというのが同時にやってくる。イカサマらしさが出た、とてもいいシーンです。
 ガクシャは天才的頭脳云々というところから始まっていますが、本当の意味で頭脳明晰かというと、そこまではないようです。ガクシャはむしろみんなを引っ張るリーダー的なことがやりたかったようです。しっぽが短いことをひどく気にしているようなところもありました。ひょっとすれば彼は身体や力不足という点に強いコンプレックスがあって、それがゆえに頭脳で先頭に立とうと思っていたのかもしれません。最後の方になればなるほど、全員に広く呼びかけて説得するような力をつけてきたように思えます。むしろ政治家的でした。最後、あの歌に隠された意味を読み取ったのはガクシャでした。みなが感情的になっている時に、一歩そこから離れて冷静に考える力があったのです。クールさという点ではひょっとしたら一番だったのかもしれません。
 忠太は泣き虫でした。最初の頃は、みんなの優しさや明るさが嬉しいというだけで涙を流していました。それまで辛い気持ちでいっぱいだったのです。そこまでの泣き癖は途中からは無くなっていきました。忠太は全体的には、逃げるか、甘えるか、絶望的になるか、常にそのあたりでした。心から楽しむ、遊ぶなんてことは出来ませんでした(家族が危機に瀕していたため)。そんな彼に最後に与えられたのはツブリを呼んでくるという使命でした。助けを求める、という部分では誰よりも説得力があります。いくら泣いてもいいのです。しっかりと自分のやるべきことをこなした忠太でした。
 ボーボは、いざという時には穴を掘って隠れる。いつもお腹を空かしているといったところが印象的でした。私は、彼のなんともいえない言葉の使い方がいいと思います。「なんで」「どうして」等とみなに声をかけていく。感情の起伏はあまりなく、常に自分のペースが一定です。それゆえボーボを見ると落ち着くのです。忠太が持っていた食べ物を分けてもらう時、最初は平気な顔をしていましたが、途中からなんだか悪いねと言うようになりました。最終回では「僕もうお腹すいてないよ!」という言葉を発していました。本当はお腹すいているはずなのですが、自分で自分に気合を入れる言葉です。
 シジンは、最初はまさに「のんだくれ」でした。全く独自の世界で静かに過ごしていましたが、他のメンバーよりも年齢が上なのでしょう。優しく広い心でみんなに声をかけていく。18話で酒を見つけたのに、それを持っていくとは言いませんでした。最初の頃は下手な詩を読んでいました。自分のためだけの詩でした。最後になるにつれてみんなのために、この世を生きる無常のようなものを読むようになりました。
 最近のアニメはあまり成長しません。最初からキャラが完成されていて、かわいらしくて、視聴者を楽しませるように表現するのです。視聴者へのサービスが満点であって人間らしさが無いのです。人間らしさというのは、ダメ人間の要素です。さらにそこで起きる事件も、あまりにも単純な形をしているので、成長するだけの機会になっていないのです(大人向けのアニメと子ども向けのアニメが二分されている中では、未熟な子どもが成長して大人になるというテーマは描きにくいのかもしれません)。
 劇場版「カワウソ」は、その新しいアニメの形で描かれていました。ガンバは幼児性がなくなり、ボケのような冗談のような振舞いを見せます。ギャグ漫画というか、あまりにも度が過ぎているというか。それでいて表情は非常にリアルで細かいのです。視聴者に向けてボケて見せているような、こびているようなそんなシーンが多かったように思えます。特にガクシャの動きは、ユーモラスですが、ウケを狙っているようであり、私には魅力的には見えませんでした。シジンの表情も細かく描かれていましたが、それも顔だけの演技のように思えてなりませんでした。
 さて、本作品では、いくつかの恋愛も描かれていました。本作品ではボーボの恋(イエナに対する)とガンバの恋(潮路に対する)でした(ヨイショに愛人がいたとか、潮路さんと太一がいい関係だったなどというのもありましたが、それはあくまで作品にシリアスな雰囲気をもたらす程度のチラリとした描き方でした)。どちらも、恋愛の一歩手前のところでとどまっています。女の子の友達となんとなくいい雰囲気になっているという状態です。好きだと告白してしまえば次の段階へ進むか、関係が終わるかどちらかになりますから、その手前にいるということは意味があります。最近のアニメは大人向きですからいとも簡単に告白して恋愛に入ってしまう。劇場版「カワウソ」において、シジンの結婚云々が少し描かれてしまう。それを他のネズミたちが憧れの眼差しで見るなんて場面が描かれてしまいます。それは明らかに思春期以降の感覚であって、ガンバという作品には不似合いです。
 イエナにしても潮路にしても、ここに登場する女性は、昭和の古き女性像を描いているように思えます。賛否両論あるかもしれませんが、私はこの作品全体の中での適切な位置だと思います。というのもこの作品は冒険や戦いを志向する「男の子」の物語だからです。命がけで戦う、可能性を求めて挑戦する、そんな姿が物語の基本的な方向性なのです。ですからそこに登場する女性(女性的な存在、弱い存在、小さな子ども)とは、ひたすら無力で被害を受けるような存在なのです。悲鳴をあげて泣き叫ぶ存在です。ふだんは優しく笑顔で語りかける存在です。ここで描かれる男の子とは、不完全で個性的でダメな姿から理想や目標に向けて努力する存在です。一方、ここで描かれる女の子とは、平時には優しく笑顔で語りかけ、危機においては悲鳴をあげて泣き叫ぶ存在です。男の子は不完全だから迷い苦しみ成長する。女の子は完全だからそのままの姿で存在する。それがこの作品の登場人物なのです。1980年代からアニメの世界は急速に美少年と美少女を眺めるものへと変貌しました。それは作品そのものの質を下げていったと思います。劇場版「カワウソ」は、美少女こそ出てきませんが、カワウソの姿は、喋り方といい、表情といい、動きと言い、少し「萌え」の要素が入っています。オオカミたちに力強く抗議する姿は、古風とは言えません。
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Posted on 2019/12/11 Wed. 21:50 [edit]

category: アニメ・特撮

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