『西遊記』感想(1)  

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 私は堺正章、夏目雅子が演じる1978年バージョンのそれがとても好きです。先日、パートⅠを全て見終わりました。まだパートⅡは見ていませんが、ここで考察したことをまとめてみたい、この作品の素晴らしさについて考えてみたいと思います。ちなみに2006年版(フジテレビ版)は最初の数話だけ見ました。2006年版は、私にとっては全然心に響きませんでした。1978年版の良さを浮かび上がらせるため、必要に応じて2006年のバージョンと比較することにしました。特に説明がなければ78年版を指しているということでご了承下さい。
 本作の素晴らしさは、まずは4人の登場人物にあります。4人の個性がはっきりしていて、それぞれがまっすぐに表現していき、思い切って音を立ててぶつかる。それぞれが個性的であるがゆえに、お互いを引き立てていく。そんな形です。三蔵は「正しい存在でありたい」と思いながら時には間違えたり、欲望を抑えることができなかったりします。孫悟空は「強い存在、圧倒的な存在でありたい」と思いながら、時には強さを発揮することができなくなります。沙悟浄は「自分だけ楽がしたい、高みの見物がしたい」と思いながら、判断や責任を迫られる。猪八戒は「欲望を満たしたい」と思いながら、旅の中で常に不満と苦痛を感じる。結局は4人とも挫折をしていくのです。そしてケンカをしたり、疑ったり、うまくいかない中で旅を続ける。
 孫悟空(堺正章)は、暴れん坊で短気。うぬぼれてしまうところもあります。悟空は、敵を倒している時に、むしろ快感を覚えているようです。怒っているというよりは、スポーツのような、燃えてくるような感覚です。自分の強さが証明されて嬉しい。そんな姿さえ感じます。堺正章の悟空は、おそらく最強なのですが、たまに妖術が使えなくなったり、如意棒を紛失して困ってしまったりします。そうすると急に焦ってしまう。その表情がとてもいいですね。無駄だと思ったら諦めるのも早い。いさぎよい、と言った方がいいでしょう。その後、再び妖術が使えるようになると一気に大暴れ。その爽快感がよく描かれています。見ててスカッとします。ある時には、大暴れするだけでなく、敵の弱点をつくために頭を使うシーンもあります。私が好きなのは、金閣銀閣が登場する4話です。ヒョウタンの力はすごいと思った後、ある種の頭脳戦のような戦い方をして、敵を封じ込めていくのです。
 大抵の場合、悟空は勢い余って最後は妖怪を殺してしまおうとするのですが、三蔵がそれを制止します。三蔵の「正しさ」と悟空の「強さ」は時として対立します。破門になることもあります。破門ということは、「自由の身になれた」ということなのですが、なぜか寂しいものを感じて、結局三蔵のもとに戻ってくる。そんな姿がとてもいいですね。悟空には、強いだけで大義名分というか、正義というものがなかったのです。三蔵と出会うことで、あるいは三蔵のもとで力を発揮することで、それまでのたんなる乱暴、暴力だったものが、正義の鉄拳のようなものに変わっていく。物語の前半では三蔵と悟空は対立することが多かったのですが、後半になるにつれて対立しなくなります。最終話で悟空は自己犠牲をして三蔵を助けようとします。(泣けます!)
 悟空は圧倒的な力だけでなく、正義感を手にすることができました。ですから旅が終わるという最終話では、自分の貢献度の大きさを自負するのです。自分は英雄になったと思うのです。お釈迦様から自分の貢献度が沙悟浄猪八戒と同じであると言われ、苦しんでしまいます。人生が描かれていてとてもいい。
 2006年版の香取悟空は随分違っています。欲望のまま突き進むような面と、正義感をかざしてむちゃくちゃ怒鳴るような面とがあって、なんだか不思議です。どっちが本当なのでしょうか。香取悟空は、怒る時に説教をします。なぜあれだけ怒るのか、よく分かりません。物語の進展で「?」となります。香取悟空は、自分の欲望を制止するのに三蔵を必要としていない。自信に満ちていて挫折することがない。人間的には完成しているのです。周囲とまじわることで変容することがない。香取悟空が動いていき、それに周囲がついていくという形で物語が進行するのです。私は香取悟空には人間的魅力を感じません。
 次は三蔵法師(夏目雅子)です。いつも馬に乗って遠くを見つめている。三匹の妖怪が悪さをしたり、ケンカをしたりするとそれを制止する立場です。馬に乗っているというのがいいです。三匹は三蔵を守る立場であり、三蔵は三匹よりも位が上なのです。(エラそうにしているべきなのです)この最も良い形式をなぜか2006年版は捨ててしまう。三蔵が馬に乗らずに歩いているのです。これでは三蔵の存在感が薄くなってしまい、さらには物語の世界観まで壊してしまうのです。深津絵里には申し訳ないのですが、どうも人を説教するようなパワーがない。細すぎる。夏目雅子の三蔵は、声が低く、きりっとしていてとてもよい。悟空が敵の妖怪を追いつめ、とどめを刺す直前でそれを制止します。「おやめなさい!」という言葉がとてもいいですね。それは殺生がダメだからということではありません。妖怪が、反省したり、悲しみのどん底にあったり、そういう心の中の「善さ」がみられるからです。勿論、悪しき存在は殺してしまってもいいのです。反省した妖怪を許す。それは三蔵の優れた力です。当初、悟空は三蔵法師の慈悲深いところがイヤでした。三蔵としては全て力づくで解決しようとする悟空の生き方がイヤでした。最初のころは、悟空を信用できずに破門だ破門だといって叱ってばかり。実際は悟空の直観が正しかったのです。後で悟空が正しかったことが分かって反省する。後半になるにつれて、三蔵はずいぶんと成長します。19話では、悟空のことを信じることができました。
 おそらく三蔵は、真面目すぎる。どこかの寺で静かにお経を唱えていたい。旅は苦行であって、楽しむものではないと思っていたのです。ガチガチで無理をしたり、説教をしたりするようなところがあったのです。それが後半になるにつれて変わっていきます。17話では老婆のために自分は老婆の息子だとウソをつくことにしました。23話では子連れ八戒を想像して爆笑していました。とてもいいですね。最初のころは三匹がケンカをしていると「おやめなさい」とたしなめていましたが、最後のころになると三匹のケンカを微笑みながら聞き流すようになりました。この微笑みがとてもいいですね。欲望むき出しの三匹をみながら、その三匹のことを心から愛するようになったのだと思います。最終話で旅が終わりそうだというころには「私はこれから先もお前たちと旅を続けたい」と言っていました。
 次は沙悟浄(岸部シロー)です。沙悟浄は、本当は、ひっそり隠れて悪口ばかり言って生きていたい。クールというか、シニカルというか、孤独であっても何ら苦ではなく、傍観者、高みの見物に徹しようとします。客観的で他人事、自分では何もしないのに文句だけ言いたい。損得勘定で物事を考えることが多く、わりにあわないとか、今で言えば「コスパがどうのこうの」と言いそうです。旅を続けることに不満を言いだしたのは沙悟浄です。暑いとか、水が無いと言ったことについて最も愚痴を言うのは沙悟浄です。あまり無理はしたくない、という思いでしょう。なぜこんなに苦しい思いをしなければならないのか、というその不条理が耐えられない。いざ馬鹿にされるとプライドも高いのですぐに怒ります。そんな彼も、5話では女性に惚れることもあり、7話では父と再会し、22話でも女性に心を惹かれていきます。美宝という女性が白骨になった後もしっかりと抱きしめるという良いシーン(一瞬しか映っていませんが)もあります。とても印象的でした。
 次は猪八戒(西田敏行)です。八戒は、食欲と性欲にどっぷりつかって生きていたい。おなかすいたとか、不満たれたれ、美しい女性を見るとすぐにメロメロになってしまう。そのくせ自分は天蓬元帥だとかっこつけることもある。美女の前で急に紳士になろうとするあたり、煩悩というか、ダメ男なのです。欲望を満たしたいのに、欲望を満たせない。美女にはいつも嫌がられる。大抵の場合、ひっかきまわりたり、混乱したりするのは八戒です。八戒が動くから物語が進む、といってもいいかもしれません。自分というものがあまりないので、順応する力はむしろ強いかもしれません。食べ物と美女に囲まれさえすれば「旅はやめて一生ここにいる」なんて言い出すことが多い。悟空は、八戒のことをいつも馬鹿にするわりには、いざという時には必死で助けようとします。弟のように想っているというのがよく伝わります。6話では、八戒のケンカがとてもよい。猪八戒の人間味がよく描かれています。文句を言われた際に「その言葉は言い過ぎではないか」「そんなことになれば悲しくなってしまうよ」といった、降参ワードです。それが猪八戒の魅力です。悟空が助けにきてくれたとか、嬉しい時にはおいおい涙を流す。情にもろい。妊娠すると母親のような心境になってしまう。八戒の一番印象的なシーンは、最終回、妹が殺されて悲しむ姿。なんとも素晴らしい演技です。悲しみと怒りでいっぱいになっている猪八戒に対して、悟空は妖怪にとどめを刺させました。
 三匹(悟空、悟浄、八戒)は、まるで子どもです。みんなふてくされたり、腹を立てて反発したりします。ですから特に三匹はケンカばかりです。売り言葉に買い言葉。バラバラになることも多かったです。前半ではケンカばかりでしたが、後半になると少しずつ心が通うようになります。特に24話の最後で、三匹そろって芭蕉扇を扇ぐシーン。子どものように喜んでいる姿はとても感動的です。登場人物はみな、ダメな部分がある。それゆえ魅力的に見えるのです。私たちもまた、誰しも4人的な要素を持ち合わせているのではないでしょうか。自分自身の中の「悟空的なもの」「八戒的なもの」を取り出すから、共感できるのです。ダメ人間だからこそ、魅力的なのです。トラブル続きだからこそ、ぐいぐい、物語に引き込まれていくのです。
 一方、2006年度版は、みんな同じようなキャラになっている。あんまり衝突がない。人間として立派なのです。ダメ人間さが少ない。ケンカもない、誤解もない。だから面白くないのです。香取悟空だけが突出した影響力を持ち、のこりの3人がそれについていく。香取悟空もまたちゃんと全てを理解している。そんな形で物語が進展します。なぜこんなに面白くない設定にしてしまったのでしょうか。2006年版は、どうも先に役者・俳優を決めて(人気者を起用しておいて)、それに合わせて内容やキャラを決めたという気がします。役者の持ち味を生かした設定にしたのだと推察します。
 1978年版の本作では、最初は、妖怪から天国に戻すとか、緊箍児(きんこじ)を外すといった理由でスタートしたはずです。しかし最後は、妖怪ではなく、美しい人間になりたいという話になる。なぜ彼らは妖怪をやめたがるのでしょうか。特殊な能力を持つことよりも、平凡な幸福でありたいという思いなのかもしれません。
 4人のメンバーは、適役です。物語にぴったりの役者を集めてきたようです。特に八戒の演技力は素晴らしい。また悟空や八戒に至っては、アドリブを入れていたようです。それはとても大切です。ああいうのを台本に書いてしまうと、無理が生じてしまい、いい雰囲気が出せない。特に三匹がケンカをするシーン、ケンカをしながらも心を通わせている姿は、アドリブの中でこそ出せるはずです。練習を重ねてできるものではなく、彼らが心の底から人物になりきっているからこそ出来る表現だと思います。
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Posted on 2018/08/29 Wed. 22:03 [edit]

category: テレビドラマ

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