『ママがおばけになっちゃった!』感想  

(作:のぶみ、講談社、2015年)母の死という重いテーマだがその扱い方は極めて雑で軽い。なぜこんなに軽いのか。コントのような場面が出てくるが、一生懸命な姿を見て笑うというのは残酷だ。死んだママが幽霊となり再会するも再び離別。それはなぜか。ママの言葉が死別の時とは思えないほど軽い。これは1か月離れる時の言葉だ。最後は「産んで良かった」「あなたで良かった」等という言葉がしつこい。まるで今日までの子育てを誰かに否定されたかのようである。何があったのだろうか。子の言葉も妙に大人っぽい。おいおい泣いているが共感できない。つられて泣く人が多いのかも。
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1.はじめに
 とてもよく売れているそうですが、賛否両論あると言われています。(アマゾンレビューでも星5つと星1つに分かれています。)結論を先に言えば私は否定的です。のぶみ氏が一生懸命に作って世に問うた作品ですから、こちらも一生懸命に読み込んで考えて分析してみたいと思います。もやもや感や嫌悪感のようなものが湧き出るのはなぜか、なぜこのような作品が売れるのか、という点についても考えてみたいと思います。
 基本的には、「死んでしまった後に、おばけとして再会する、そして本当の別れをする」という内容です。最後は「ママと一体になる」ということが示唆されますが、死別という点であることには変わりがありません。以下、詳しく取り上げてみます。
2.「ママが死んだ。お化けになってやってきた」というシーン
 いわば「母の死」というのは、重い話です。絵本では取り上げることの多いテーマです。その場合は動物に例えることも少なくありません。祖父母の死や母子の死別についてもわりと珍しくはないテーマです。絵本で取り上げる際には、死は根源的な悲しみとしてとりあげます。深い悲しみや、どうしようもなく気持ちのやり場のないような、暗闇のような世界であるということでは共通しています。ところが本書は、「母の死」というテーマを取り上げておきながら、非常に軽いタッチで描いていきます。
 ママは、なぜここまであっけらかんとしているのでしょうか。本当に死んだのであれば、この程度の悩みではないはずです。まずもって周囲の全ての人々(子どもや旦那や全ての人々)に対して申し訳ないという気持ちになるのではないか。子どもの将来、子どもが成長するまでのこと全体が心配になるはずです。子どもが立派な大人になるまで支えるという親としての基本的な義務を果たせないまま死んでしまったからです。いろんな言葉が出てくるはずですし、それがあまりにも多すぎて、複雑すぎて、結局は言葉が出てこない、というのが自然な姿だと思うのです。しかし本書では、あっけらかんとしている。「おっちょこちょいだから」という言葉と死別とがあまりにも離れている。ママは、なぜ泣いているのでしょうか。別れが寂しいから?本当に死んだのであれば、泣くどころではないはずです。言葉を失い、何も出来ないような状態になるはずです。本書の台詞「あのこ、ママがいなくても いきていけるのかしら」という心配も、どこか変です。まずは育てることが出来なくなったということの自責の念とか、申し訳ないとか、そういう複雑な感情の方が出てくるはずです。おばけとなった母は、なぜか微笑んでいました、という点だけで留めておいて、後は何も語らない。そういう物語にすればよいのです。そうすると読者は上記のような複雑な心境を推察できるのです。本書のようにおいおい泣いて、べらべら喋っているのを見ると、それ以外の推察の余地を禁止しているような印象を持ちます。
 一方、かんたろうの側も、一応泣いてはいますが、それほど深いものではありません。母親のことがよく分からないということなのでしょうか。突然母を失った子どもは、どんな心境でしょうか。普通はこう思う。「なぜ、僕を置いて遠くへ行ってしまったのか?」「僕が嫌いになってしまったのか?」と。それは不満や怒りとなって現れるはずです。たんなる「悲しい」「会いたい」ではなく、もっと複雑だと思う。
 普通に読んでいけば、このような軽いタッチなのだから、「きっと夢オチだ」というふうに思うのです。夢オチという想定されるゴールに向かって読み進めていきます。しかし最後までこの設定は変わりませんでした。読み終わった際には、どうしてこういうことになったのか?どうしてこんなに軽いのか?という疑問がぼんと出てしまう。その答えは、見出すことができません。本書は、「死という深刻なキーワードであるにもかかわらず、軽いタッチ」という不思議な世界観が出来上がります。作品としては非常にいびつな形をしていると思います。

3.「ママが見えない状態でママに懺悔する」というシーン
 こっそり隠れて見に来ているママ、素直な謝罪をする子ども。これは大人が笑うような喜劇の形をしています。まるで「アンジャッシュのコント」です。子どもと祖母が嘆いているのに、ママはすぐ真横にいる。子どもがそれまで隠していたことを披露するが、それがあまりにもぶっとんでいるのでママが怒ってしまう。子どもがボケ役で、ママがツッコミ役です。これは読者である子どもが理解できる笑いなのでしょうか。読者である子どもは、主人公の男の子に共感しようと読むはずです。ママの料理がテキトーだとか、ママにウソをついたとか、悲しさのあまりママのパンツ(遺品)を身につけるとか、そういうことも、「そういうものだ」と思って読むことでしょう。それを、ママが「おいおい、そんなはちゃめちゃなことは言うもんじゃない!」といって否定するのです。冗談っぽく。この仕組みは子どもには理解できないと思います。
 もしこれが冗談だとすれば、それはそれで酷い話だと思います。レビューを見るとこのあたりは笑って読んでいる人もいるようですが、私には笑えません。ママの料理がテキトーだということを、ママ本人が言うならばともかく、子どもがそれを指摘する、なんてことは到底理解できません。金銭的にも時間的にも余裕がないから、有り合わせのもので出していると思うのです。笑えますか。また子どもは、祖母の野菜中心の料理よりも、ママのつくったインスタント食品の方を好むはずです。ママのパンツをはくというのは、ママが生きていてママが不在中に遊びでやっているならまだしも、亡くなったママの感触を思い出そうとしているのですから、これは悲しい話です。本書は、それら事象を深くとらえることを拒否しているように思われます。背景や理由は深く考えずに、ここは笑うところですから、はい、笑って。と言われているようです。その映像だけを見て、笑って欲しい。まるで動物園の猿が変わったことをしている、かのように。ママってこんなにダメだよね、ハハハ 子どもってこんな意味不明なことするよね、ハハハ といった笑いです。笑いとしては品がなく、汚い。一生懸命に生きている人間を見下しているような冷たい笑いです。残酷な笑いです。本来、子どもが笑うのは、馬とかキリンとかが出てきて、ありえないような奇想天外な動きをした時です。ファンタジックな話で笑うのだと思います。子どもの感覚ではない。子どもに合っていない。子どもは理解できない。そんなシーンだと思いました。
 もしこのギャグを表現したいのであれば、「死んだ」という設定でなくてもよかったはずです。こっそり隠れて見ている、という設定でもよい。「死んだ」という設定ではなく、「入院で一時遠くへ行くことになった」という設定にして欲しい。大切な人が死んだという直後に、こんなギャグをどどどっと並べるという感覚が私には理解できません。
 深夜12時すぎると幽霊になったママと再会できることになりました。この時点で複雑な感情のやりとりがあってもよさそうなものですが、非常に軽い話として描かれています。(わきばらの肉で飛ぶ、なんてのは、本当に酷い表現だと思います。)この軽さは、まるで「捨ててしまった玩具の幽霊」が夜にやってきた、という程度の軽さでしょうか。

4.「別れに向けて準備する」というシーン
 せっかく再会したにもかかわらず、ただちにママは、自分がもういなくなるということを伝えます。なぜでしょうか。絵本の中身として、毎日幽霊として会いに来てくれる、という物語展開でも良かったはずです。死別は悲しいことですが、これから先もずっと毎日会いに来てくれる、というのであればまだハッピーエンドになるのです。あなたのことがずっとずっと心配だから、24時間常に横にいるからね、という笑顔で終わっても良かったのです。絵本は子どもが読むのです。出来るだけハッピーエンドにしようという作者の意図が働くべきだと思います。本書は一度目の別れ(死別)でも辛かったのに、幽霊となって復活した後に、さらに二度目の別れを迎えるというのです。どうしてこんな辛いことをするのでしょうか。
 別れに向けてママは子どもに声をかけていきます。子どもに対して、自分一人で出来るかと問いかけていくのです。風呂、トイレ、玩具の片付け、など求めていきます。本書の設定では、子どもは何でもママに頼ってしまって自分からは出来ない、という設定だったようです。ただし、ここはもう少し具体的な話が欲しいところです。トイレに行けないのはなぜでしょうか。夜が怖いから?それはありえないと思うのです(もちもちの木ではありません)。寝ぼけてしまってうまく放尿できないという技術的な問題でしょうか。片付けが出来ないというのは、出来ないというよりはやりたくないという問題です。技術的には一人で片付けは出来ます。それが楽しい時間を停止するという地味な作業だから、たんに「やりたくない」ということなのです。幼稚園の準備については、本当に何をすればいいのか自分では分からないということでしょう。これらは自分で決心したからといって出来るようなものではありません。
 最後の場面で、彼は自分でやると決心するようになります。ママからの愛のメッセージを聞いて、朝起きた時に、ママはいなくなりました。そこで「ぼく、がんばってみる。ひとりでやれるよ。」と決心するのです。何をどのように頑張るのでしょうか。ママが不在で寂しいけれども弱音を吐かずに強く生きていくという話と重なっていくのです。話があべこべです。どうしてこんなにもごちゃまぜにしてしまうのでしょうか。
 ママが子どもに一人で出来るかと問いかけるという点には、リアリティがありません。死別した時に、子どもに伝えることができるとすれば、もっと大きなことを言うと思うのです。最も言うべきことは「おばあちゃんの言うことをよく聞くのよ」「おとうちゃんの言うことはよく聞くのよ」だと思うのです。自分のことは自分でしなさいという言葉は、あまりにもその場的というか、目の前のことばかり述べています。これは死別というより、1か月程度離れることになった母親から子どもへのメッセージだと思うのです。
 次にママと子とで散歩に出かけることになりました。あちこちに幽霊がいます。町中を歩くと多くのおばけがいます。ママは「ひとは、みんな、いつか しぬの。しなない ひとなんて いないのよ。」と言います。これはどういう意味でしょうか。誰だって死ぬのだから仕方ない、ということが言いたいのでしょうか。この箇所は、私には意味が分かりません。今問題になっているのは、まだ親としてやるべきことが山積しているのに、それを放棄してしまった、という事実なのです。今死ななければならない理由は、どこにもなかったはずです。
 「いきてるとき こうしておけば よかったのになって おもうひとが、おばけになるのよ。」とママは説明します。なぜママは、そういったことについて熟知しているのでしょうか。もしこの見方が正しいのであれば、なぜママはおばけになったのでしょうか。やり残したことがある、と思っている間は永遠にその辺を浮遊できるということではないでしょうか。おばけとはこういうもので云々という説明が意味をなすためには、冷静かつ客観的にとらえるための心の余裕が必要です。この説明を冷静に聞けるような状態なのでしょうか。例えば生きている者同士で、お盆の時期に祖父母の幽霊を見た、なんて時にはこんな話が出来るかもしれません。しかしママは死に、子どもは悲しみのどん底なのです。不条理の状態で、こんな会話ができるのは理解できません。この「他のおばけのくだり」は、本書に必要な箇所でしょうか。ちょっと神秘的な世界を表現しようとしただけのように思われます。

5.「別れを惜しむ」シーン(愛のメッセージ)
 別れのシーンで様々な言葉をなげかけます。この言葉は、死別時の言葉とは到底思えないものです。まずママは、自分自身がおっちょこちょいで失敗だらけだったことを語ります。しかし子どもを産んだことは、良かったこと、大成功だったと語ります。
 「産んで良かった」という言葉は、どういう意味でしょうか。子どもを産むことが良いことであるのは、当たり前です。なぜそれを言葉に発するのでしょうか。例えばこんな状況を想定してみましょう。父親不在でみんなが反対したけど頑張って産んで良かった、出生前診断で障害が疑われたけど産んで良かった、高齢出産で病気持ちだったけど産んで良かった、子どもが不良になったけどそれでも産んで良かった、等。何らかの理由で否定されそうになった時、いや、やっぱり、産んで良かった、と言えるのです。そういう設定が隠されていたようにも思えません。この場面で産んで良かったという言葉が出てくるのは、どうもおかしいと思います。文脈もなく突然出てきた言葉のように思えるのです。
 「だいせいこう」という言葉も、ひっかかります。まるでゲームのような、課題達成のような、そんな言葉です。子どもを産むのに成功とか失敗とかいった言葉で表現する人がいるのでしょうか。帝王切開の手術が成功したとか失敗したとかなら分かりますが。
 さらにママはその時のことを想起して、子どもが産まれて、自分の命よりも大切だと自覚したと語っています。いやいや、ちょっと話が急です!普通は、我が子を産んだらどう思うでしょうか。絶対にこの子を幸せにするとか、命の誕生に感動するとか、そういうことだと思うのです。自分の命と子の命を比べてどっちが大切か等という問いを掲げることがおかしい。リアリティのない変な文章に思えます。
 さらに、かんたろうが「ぼくが ママの子どもで よかった?」と質問し、ママは「ママは かんたろうで よかった。」「あなたじゃ なきゃ ダメなのよ。」と答える。ママはかんたろうに対して「ダメなところがすき」といい、かんたろうは「ぼくも ママのおっちょこちょいで ダメな ところが すき」と言うのです。
 どうしてこんな変な文章が続くのでしょうか。この会話が成立するためにはどんな状況が必要でしょうか。幼稚園では周囲の子どもに暴力を振るったり、近所の店で盗みをしたり、物を壊したり、云々というような状況があり、「もうお前なんか出ていきなさい」「うちの子じゃありません」等ときつい口調で注意し、それを真に受けた子が酷く落ち込んでしまった。そんな前提があってこそ初めて成立するような会話です。この絵本はそんな話だったのでしょうか。トイレに行けないとか、玩具を片付けないという程度で、こんな重い会話になるとは思えないのです。勿論子どもを育てた親はそれが「良かった」ことであると理解しています。しかしそれを意識して言葉に発することはありません。否定されることが少ないからです。死別の際に思うことは、これまでは良いことだったという過去の評価ではなく(それは分かっているので)、今後の未来が心配だということのはずです。
 子どもがママのおっちょこちょいなところを熟知していて、それを好きだという理由も分かりません。幼稚園児が自分の母親を冷静に分析するとは思えませんし、ダメなところが好きという言葉が使いこなせるにはせめて中学生くらいになってからです。この箇所はどう考えても子どもの言葉とは思えません。不安でいっぱいの母親が、誰かにそういう言葉をかけてもらいたいという願望だと思うのです。
 新幹線が好きなところが好き、友だちに優しいところが好き、ブロックが上手なところが好き。そんな文章が続きますが、本当に変な文章です。親というものは、新幹線が好きなところが好きなのではなく、新幹線が好きだと言う子どもの様子を見て、この子は将来天才になるんじゃないかとか、将来良い趣味がたくさんできるんじゃないかとか、そういうことを思うのです。新幹線が好きということそれ自体は、いずれ忘れていくようなことです。
 極めつけは、「ママはかんたろうのママでしあわせでした。」という箇所です。こういう言葉は、苦しみや悲しみのどん底にあって、「いやいやそれでも私は幸せでした」と、言わば反論気味に主張するような言葉です。しあわせでした、という突然敬語になるのはなぜでしょうか。急に広いステージに立ち、大観衆を前に宣言しているような形になるのです。思い切った告白でしょうか。いったい誰の目線で描いているのでしょうか。決して子どもの目線ではありません。毎日不安で仕方ないような母親を想定しています。言葉自体は、映画で描かれるような過激で深刻で悲劇的な関係において重みをもつような言葉なのです。私たちの自然な関係においてはあまり使うことがない言葉です。例えるならば、静かな森の中で重金属が落ちてきた、というようなイメージでしょうか。

6.なぜ感動するのか? 本書の特徴は?
 これらのワードは典型的な感動ワードなのです。それをぐいっと広げてみましょう。
「あなたのありのままの姿がスキスキスキスキ」
「いろいろとダメダメ言われてきたが、そんな自分がスキスキスキスキ」
「失敗ばかり、問題だらけ、それでも今までやってきたことって、素晴らしいこと!」
 絵本読みというのは、書き言葉を音声言語に切り替えるという作業です。「スキよ」という言葉を吐き出した瞬間に、自分の心の中が揺れる。そういうメカニズムだと思います。人生20年も30年も生きてくると、唯一性といいますか、溢れるような感情というか、
そういうものから離れてしまう。毎日惰性でやっていくということが多くなります。今のままでスキと言われたい(言いたい)。そういう恥ずかしいようなワードで人々は感動するのです。
 作者のぶみ氏の戦略では、こうした感動ワードを大量に放出するためには、どうしても母子の死別を描く必要があった、ということでしょう。幽霊のまま毎日会えるというハッピーエンドになれば、感動ワードが不要になってしまいます。死別だということになれば、感動ワードがスムーズにたくさん出てくることになります。絵本を感動的なものにするためにバッドエンドにしたと言えばいいすぎでしょうか。
 絵本を純粋に、物語としてとらえた時に、その物語が秩序として成立していないことが分かります。なぜこのような言葉が出てくるのか、理解できません。かんたろうが何をしたのか。人物の置かれた状況やそれまでのリアルなかかわりが描けていないのに、無数の感動ワードだけが放出されるのです。
 この絵本で感動したという人は、なぜ感動したのでしょうか?どこに感動したのでしょうか?ある種の感情のジェットコースター的な展開です。「ビックリ」「かわいい」「たのしい」「うれしい」「興味深い」「かなしい」「スキスキスキ」…あらゆる感情を次から次へと流していくのです。多様な感情を重ねていき、前の感情が後の感情を引き立てるように出来ているのです。実際に何があったのかという事実の部分は徹底的に削除され、感情の部分だけが大きく表現される。まるで恋愛映画です。いわゆる恋愛映画とは、相手の人間性や人間的な魅力に触れるという具体的なプロセスよりも、「とにかく好きになっちゃったのでそれを言います!」「告白しようかどうしようか、ドキドキ」という方を大きく取り上げるのです。
 これまで私たちが慣れ親しんだ絵本は、客観的事実の部分がメインで、感情の部分は出来るだけ捨象して出来ていました。「おじいさんは山へ芝刈りに行きました」という事実の部分がメインです。それゆえ私たちは絵本を読んで様々な感情や心の揺れを推察することが出来たのです。「おじいさんはどんな気持ちか」と問うことができたのです。しかしのぶみ氏の絵本は、感情表現の方がメインになっているのです。世界の秩序や普通の感覚、常識的な論理というものを薄い状態にしておき、感動ワードだけを用意して接合した、そんな話なのです。「とにかくこんな気持ちです」と言われたような状態で、「私も同じ気持ちです」というしかなく、解釈を深めたり、世界を想像したりといったことが出来ないのです。(こうした傾向は、宮西達也氏、すまいるママ氏らの絵本でもうかがえます。)
 こういう絵本を読んで、中身が空虚だとしてもそこには気付かずに雰囲気だけで感動している人が多いのです。感動する読者がいるというのは、驚きです。そういう読者とは、「子ども」「ママ」「死」「愛」「好き」「良かった」と並べれば、もうその雰囲気だけで涙を流して感動してくれるのです。映画の予告編だけを見ても、おいおい涙を流すような人です。もっとしっかりと読んで、議論して、そしてしっかりとした考察の上で評価して欲しいものです。全国学校図書館協議会選定図書というのも、驚きです。どのような感覚で選定しているのか、謎です。選定した人のセンスを疑います。困った。
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Posted on 2018/06/15 Fri. 00:11 [edit]

category:   3) 母親の迷い

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