『かぐや姫の物語』考察  

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 テレビで放映されているのを見た感想です。ネットでみると評価は高いのですが、私は「いまいち」でした。月の世界というのは、仏やお釈迦様の世界であって、生きる苦しみから解放された楽園ということだと思います。かぐや姫は、地球の現実世界に憧れてしまったがゆえに地球に放り投げられてしまった、地球で生活してみると辛いことが多い、かくして再び月の世界へ連れ戻すことになった。そんな話だと解釈します。
 この物語で描かれているかぐや姫は、大自然が好きで、虫や動物たちの生命の喜びを感じていたい。形式や伝統や文化や権威などが大嫌い。そんな女の子です。貴族屋敷での生活はとにかく嫌で、すぐにでも田舎に戻りたい、と思っているのです。彼女は、貴族や帝や、あるいはおじいさんまでも嫌いなのです。好きなのはおばあさんと捨丸。好き嫌いがはっきりしていると言えます。
 そんなかぐや姫が、物語の最後に、月へは帰りたくない、というのです。私はここにどうも釈然としない、なんともスーッと入らないようなそんなものを感じたのです。月へ帰りたい、と強く主張したのであれば、私はすーっと理解できたはずです。おそらくこのかぐや姫のような人物が、むしろ仏の世界や極楽浄土や涅槃の世界に憧れていくのではないでしょうか。こういう人物こそが、現実世界が嫌になって、仏の世界に入っていくような気がするのです。ですから、物語の最後のシーンで、かぐや姫が地球にとどまりたいと駄々をこねるのですが、そのシーンには違和感がありました。地球に行ってはみたけれども、とても大変な世界でした、もうここにはいたくありません。おじいさんは、最後の最後まで私の気持ちに寄り添ってくれませんでした。出会う貴族たちはみんな地位や名誉ばかりを求めているようでした。形式的なことが多すぎて息が詰まりそうです。こんなところにはいたくありません。すぐにでも月へ帰りたい。かぐや姫からは、そんな言葉が出てくるはずだと思うのです。「かぐや姫は月へ戻りたいと強く主張するのですが、周囲の貴族やおじいさんたちが猛反対する。」そんなストーリーの方がしっくりくると思うのです。
 もし、「地球にとどまりたい」という部分を優先させるのであれば、ここで描かれるかぐや姫はもっと違った形の成長をするべきでした。例えば文化や伝統の素晴らしさや面白さに感動する。源氏物語のような文学作品を読んで深く共鳴する。帝やハイセンスな貴族に心をときめかせる。悪さや汚さ、間違いや対立といった人間臭いものが、それこそ「好きだ」と言えるようになるべきだったのです。いわゆるダメ男を見ても、見捨てることができない。そんな人物であれば、「月へは帰りたくない」と言えたはずなのです。
 結局は、高畑勲の好みだと思うのです。自然を愛し、社会や文化や伝統といったゴツゴツしたものは大嫌いだという感性です。大きな口を開けて笑い、興味あるものに没頭し、時には走り回るようなそんな自然の中で強く生きる女性が大好きなのです。おそらく高畑勲自身も、そういう考え方なのです。自然の生命力は大好きで、人間社会の形式や葛藤は大嫌い。高畑自身の理想的な姿を、このかぐや姫に込めてしまう。しかしそれをはっきりと描こうとすればするほど、かぐや姫は、菩薩のようになってしまう。そうすると今度は竹取物語の世界がうまく描けなくなってしまうのです。
 高畑勲の物語の描き方だと思うのですが、素朴な日常生活をじっくりと描く。それが美しいというふうに表現していくのですが、孫が生まれて喜んでいる祖父母の姿を徹底的にリアルに美しく描いたとしても、結局は私たちの日常生活のコピーのようになってしまうので、軽く見えてしまいます。身体の動きはリアルですが、すべてがリアルなのではありません。赤ちゃんがはいはいをして部屋中をまわると、なんでも口に入れてしまいます。石だってカエルだって。しかしそういう部分は捨象してしまうので、きれいな部分だけを取り上げているように見えます。他人のホームビデオを見せられているような感覚です。技術が高いのは分かりますが、そこで描かれているものは極めて平凡で、特に感動するものではないのです。
 生まれたばかりの小さな女の子とおじいさんとの幸福そうなシーンがかなりの時間を使って描かれていますが、この時、けっして二人の間の人間関係が深まっているのではありません。赤ちゃんは自然体で動き回っていて、それをおじいさんは好き好きといって眺めているだけです。もし二人の間に複雑な感情が成立するのであれば、女の子がもう少し大きくなってから、おじいさんと一緒に野山をかけめぐって遊ぶといったシーンが必要です。そういうシーンはありません。おじいさんが娘のことをいとおしく思うのは伝わりますが、かぐや姫の方がおじいさんのことを想うというのは、伝わりません。むしろ反抗して大喧嘩するくらいの状況だと思うのです。娘を貴族に嫁がせるというのは、要するに将来食べ物で困らないようにするというおじいさんの想いだと推察します。しかしここまで娘が嫌がっているのを無理強いするというのは、どうもやりすぎです。ここまでやりすぎると、かえって家庭内が対立不和に見えてきます。月へ帰りたくないと言いながらおじいさんとおばあさんに寄っていく姿は、どうも変に見えてきます。
 前半の、この赤ちゃんとおじいさんのやりとりは、とてもリアルに表現されています。動きや音や雰囲気や質感などはよく描かれています。おじいさんの表情もあまりにもリアルに描かれています。しかしおばあさんの描き方は3頭身のマンガ体形です。ほかにも多くの人物が『おじゃまんが山田くん』のような記号として描かれています。一つの映画に、記号と写実という二つの側面が描かれていて、なんともキモチワルイのです。どうしてこういうことになるのでしょうか。推察ですが、高畑勲は、小さい女の子、それからもう少し大きくなった少女、というものをとにかくリアルに描きたいのです。自分が美しいと思うものはとにかく写実的に描いてしまう。全裸になって川に飛び込むシーンもありますが、要するにエロなのだと思います。極端な言い方をすれば、高畑勲は自分自身の理想の女性像を描きたかったということなのだと思います。
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Posted on 2018/05/23 Wed. 00:17 [edit]

category: 映画

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