「子どもにゲーム機を買うこと」考  

 自分の子どもがある日、ゲーム機(ニンテンドーDS)を買って欲しいというのです。さて、困りました。いろいろと思うところがありまして、その心境は複雑ですね。親の心境、子どもの心境、その際の実践的方法について考えてみたいと思います。
 まず親の本音です。「ゲーム機の購入はダメ」という言葉が浮かびます。親がゲーム機を嫌がるのはなぜでしょうか。高価だから。目に悪いから。それだけではありません。親から見れば、テレビゲームは、たんに欲望を消化しているだけの、無駄な時間を消費するだけの機械だというふうに思うのです。極端なことを言えば、電気信号が赤だったら悲しみ、黒だったら怒り、白だったら喜ぶ、というようなことなのです。しだいに電気信号が白になればドキドキし、赤になったとしてもそれでも(自分の操作しだいで白になるわけですから)ドキドキするようになります。ひたすら機械を見つめてドキドキワクワクするのです。あっという間にドキドキした時間が過ぎ去ってしまいますが、おそらく、そこには何ら生産的なものはありません。子どもは、自分がゲームの中で工夫したり創造したりしているように思うでしょう。しかし実際にはゲーム機の仕組みに流されているだけです。親は、自分たちがテレビゲームをしたことを覚えています。楽しい時間だったということも分かります。それゆえ禁止したい。分かるがゆえに、怖いのです。あれは娯楽というよりはギャンブルのようなものだ、なんて思ってしまうのです。ゲーム機の会社を悪く言うつもりはありません。楽しい時間を提供しているということですから、たまに遊ぶくらいならば何ら問題はないのです。問題は止めるべき時間になっても止められないということにあります。
 小学生の頃というのは、いろんな経験をして成長したり勉強したりする時間です。本来は大切なことを経験できるその時間を、機械の電気信号を見つめるという時間にしてしまうのです。それは「無駄」だと思うのです。親は心配です。このままテレビゲームばかりやってしまって、本当に大切な経験をしなくなるのではないか。面白い本を読ませたり、創造的な遊びをさせたり、いろんなことをさせたい。子どもは暇つぶしだと思うかもしれません。しかし「暇な時間」は大切です。暇な時間とは「無駄な時間」ではなく、頭を働かせて、想像・創造するような「豊かな時間」なのです。それははっきりと言えます。その「暇な時間」を、ゲームに没頭することで、本当に「無駄な時間」になってしまうのです。
 毎日が鬱々としていたり、イライラすることが多かったり、あるいは心の奥が深く悩んでいたりした場合には、テレビゲームをすれば何かスカッとした気持ちになるかもしれません。しかし本来は、現実世界の葛藤や苦しみに立ち向かって、現実の中で問題解決をするべきなのです。外に出たり、仲間と声をかけあったりして、スッキリするべきなのです。それをテレビゲームに集中することで解消したと思い込むべきではない。やはりテレビゲームは現実逃避の道具なのです。
 親から見ればテレビゲームに没頭している姿は異様ですし、嫌悪感を持って眺めてしまいます。小さな箱を延々と見つめ、喜んでいる。食事を忘れ、会話を忘れ、さらには多様な感動さえも忘れ、まるで何かに取りつかれたようにじっとしているのです。家庭用のゲーム機(テレビ画面に取り付けるもの)の方がまだいいです。心配になるのは当然です。それだけ面白いということなのでしょうけれども。友達が数人集まってみんなでゲームをしているなんて姿は、滑稽でさえあります。親の素直な気持ちは、もっと明るく、活発に、身体を動かして楽しい時間を共有して欲しい。ゲーム会社は余計なものを作りやがって、と思ってしまいます。(勿論会社の人々は自分の生活がかかっているので、仕方ないことなのですが)それが人情です。
 昔ゲームウォッチというものがありました。5000円くらいで小さな画面で一つのゲームだけが表示されています。液晶でした。あのようなものであれば、たかが知れています。一か月もすれば飽きてしまいます。しかし今のゲーム機は怖いです。ソフトをどんどん追加していき、ネットワークで対戦をするので、可能性はどんどん広がります。ネット環境にも入れるので、本当に何が起こるか分かりません。親が制限することが出来るようなのですが、制限するかしないかの判断が親に委ねられているというのも怖いです。
 正直言って、親は怖いのです。この先、何が起こるか分からないのです。何とかして子どもを正しい方向へと導こうとするのですが、それが出来なくなるような気がする。勉強もせず、友達とも遊ばす、ひたすら引きこもりのようになってしまうのではないか。最悪の場合、犯罪者のようになってしまうのではないか。心配は尽きません。この親の心配というのは、裏返せば、「親としての影響力よりもゲーム機の影響力が強いので困った」という悲しみでもあります。少し思い返してみます。それまで子どもと一緒に楽しく遊んだでしょうか。いいえ。そんなに楽しめていないのです。上手く出来なかったのです。その自信の無さが、不安となって現れます。子どもがゲーム機を手にして、それからどれくらい没頭するかは、親がそれまでその子にどれくらい真剣につきあったかどうかによって変わってくるような気がします。試練ですね。親としての。もし自分自身が子どもに豊かさを提供できる、素晴らしい世界の文化遺産を子どもに伝えることができるという強い自信があれば、ゲーム機を買ってもどうということはないはずです。「そのうちやらなくなる」と思うからです。しかし皆その自信はありません。どんどんゲームばかりしてしまうのではないかと不安になるのです。本当に楽しいことや豊かなことを山のように経験させていれば、ゲーム機等あっという間に飽きてしまうはずです。しかしそれまでの家庭生活が不満で、つまらなくて、イライラしているようなことであれば、ゲーム機は救いの神様のようなものです。「どこか遠くへ連れていって欲しい」そんな思いになることでしょう。私たちは不安です。不安はどんどん大きくなります。キャンプや釣り、スポーツ、演劇や楽器演奏、勉強など、いろんなことを教えたとしても、それでもゲーム機の方に惹かれてしまうかもしれません。
 ゲーム機が不快であるのは、携帯電話が不快であるのと似ています。目の前に存在する。私とあなたが存在する。しかしゲームや携帯電話は、心だけ別世界なのです。自分の意思で自分の力で別世界に行っているのであれば、戻ってこられます。しかしここでは機械の高度な技術によって、心を連れ去ってしまっているのです。なにか途轍もなく、巨大で圧倒的なパワーによって別世界に連れていくのです。今ゲームに夢中になっているこの子は、私がここに存在するということすら気づかない。私たちは無視されているのではないか。理性というものが失われてしまうのではないか。そんな思いです。私たちは一緒に生活しているのに、延々とゲームに没頭している姿を見る、不快になります。
 この不快を解決するための方法は、自分自身の立ち位置をずらすことです。こう思えば良いのかもしれません。「携帯電話でも、テレビゲームでも、それは全員が手にするもの。みんなが集まったとしても、そこで濃密な会話をする必要はない。存在するかしないのか、微妙で軽い雰囲気の距離感で良い。」いったんそう思ってしまえば、楽です。今の子どもたちも、世の中の多くの人々も、この薄い距離感を心地よいと思っているのでしょうか。孤立と集団との間の、微妙な緩やかな関係。この雰囲気を気にしないのであれば、ゲームも、携帯電話も、気にはなりません。レストラン等で、面と向かっているのに一切目を合わさずに、ゲームと携帯を見つめている。そんな場面を思い出します。彼らは会話をしない方が楽なのです。変わるべきは、子どもではなく、私なのかもしれません。
 子どもは様々なことを主張します。子どもは自分が中毒症状になったことがないので分からないのです。自分はちゃんとセーブできると思い込んでいるのです。勉強はちゃんとしている。人間的な経験もしている。考えているし、悩んでいるし、楽しいこともある。私は壊れているのではない。ルールは守っているし、親には敬意を払っている。すなわち子どもは親の心配は不要だといいたいのです。子どもは、親があまりにもあれこれすべてのことに口を出すので、その干渉性に腹を立ててしまうのです。
 子どもはこういいます。「友達もみんな持っている」と。親からすれば、そんな言葉は説得的ではありません。みんなが持っているのだから与えるべきだというふうには、普通は考えません。どうしてそういう低俗な理由を述べるのでしょうか。メリットが100個あれば納得するだろうという安直な考え方が不快です。そもそもゲーム機に、価値を見出していないのですから。
 ところがいろいろと考えてみると、子どもの言いたいことは「友達もみんな持っている」ということではないのです。同じ物を持ちたいということではありません。友達と同じ時間を共有したいのに、ゲーム機が無ければそれが出来ないという、「悲痛な叫び」なのです。もっといえば子どもたちには子どもたちなりの世界なり社会があって、その中心部にいるか、周辺部にいるかで、その生活が大きく変わるからです。スクールカーストのようなものが強く作用しているのです。ゲーム機がなければ無視されたりバカにされたりする。それは子ども一人ひとりが何とか出来るような性質のものではありません。学級を担当している教師でさえうまく統制できません。この社会が出来上がっている中で、孤立や排斥は非常に辛いものがあります。ゲーム機が欲しいというのは、テレビゲームで欲望を充足したいという願望ではなく、子どもたちの集団社会の中でなんとかしてよいポジションでいようという戦略なのです。(それゆえプレイステーションではなく、ニンテンドーDSが欲しいのです)そんなものを気にするなとか、そんな友達関係が間違いだ、などといっても始まりません。それを防ぐ努力は必要ですが、その世界の中で毎日呼吸する者としては、なんとかしてこの息苦しさから解放されたいという思いなのです。結局は辛いのです。喜びではなく、根源的な悲しみからの逃避なのです。私たちはそういうことが分かると同情したくなります。
 親がゲーム機の購入を拒否すればどうなるでしょうか。ゲーム機がないというだけで豊かさや人間的成長が達成できるわけではありません。ゲーム機を与えないという悪あがきをしても、殆ど効果はないと思います。ダメだと拒否してしまって、かえってゲーム熱が強くなり、隠れたり、悪さをしたりしてしまうのも困ったものです。世の中には快楽物質が溢れています。今制限したところで、後々その環境の中に移行するわけですから、制限しても意味がないことなのかもしれません。辛いことなのですが、私たちに世のなかの動きに抵抗するだけの力はありません。この流れにさっと乗ってしまい、その後は、戦うしかないのです。ゲーム機の魅力に優る、もっと大きな魅力というものを探し求めるという戦いです。
 ここに至って仕方なくゲーム機の購入を検討してみます。いろいろと不安や心配であるので、時間制限や使用制限などのルールを課そうとするのですが、それは完全なる脱帽の末の最後の悪あがきのようなものです。親が時間を測りながら良いとかダメといった判定をしているという姿は、もうマヌケです。親は人間であって、管理者ではありません。買ってしまった後は、もはや流れに身を任せるしかありません。ゲーム機を購入した後で、中毒性になるかどうかは、分かりません。のめり込む子もいますし、そうでない子もいます。勉強せずに堕落してしまう子もいますが、そうでない子もいます。ゲーム機よりも大きな魅力を与えるかどうか。親の力が試されているのかもしれません。子どもを育てていて思うのです。何も心配せずに、放置していながら、親の背中を見ながら、どんどん成長していく…なんてのは、遠い昔の幻想なのでしょうか。
 さて、結論です。ゲーム機を買うのは仕方ありません。ただし買ってと言われてすぐに買うのはイヤです。高額商品ですし、ギャンブルに近いからです。親は心配で、不快です。そのことは伝わるようにしたい。制限や条件を付けて買うというのも嫌です。許可(子の勝利)か禁止(親の勝利)か、ルールの遵守といったのは、とても家庭的教育的ではありません。重要なことは、ゲームには距離を取りつつ、豊かで感動的な体験を併用するようにすることです。ゲームは否定しないけれども、常にそれ以外の視野は維持するべきなのです。そのためには第三者の介在が必要です。買うのは、親ではなくて祖母や親戚にするのです。そんなことを、あれこれ悩む日々です。
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Posted on 2018/05/23 Wed. 00:14 [edit]

category: 社会・教育

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