映画『君の名は』感想・考察  

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 とてもよく出来た作品だと思いますが、私はあまり好きにはなれない作品でした。私の感想です。熱狂的なファンの方は、気を悪くされるかもしれませんが、私なりには真面目な考察のつもりです。異論はあるかもしれませんが、批判的な意見としてご了承いただいてから、以下を参考にしていただきたいと思います。
 なぜこんなに人気があるのか、8つのポイントにまとめてみました。

1.美しい風景、マニアックな映像。
 何気ない風景であっても美しく描いていくというのはジブリ以降の特徴でしょうか。風景の美しさは素晴らしいですね。森や夜空や古い街並みが綺麗に描かれているだけでなく、日常的なマンションとか通勤電車とか歩道橋とかまで、なんだか「世界の絶景」のようです。実際にある場所だったり、本当の商品名と少しだけ変えていたり、いろいろな意味を持たせてあるので、好きな人はそれだけで盛り上がっているようです。実際にアニメで描かれているその場所に行きたくなる人もいるようです。なぜその場所に行こうとするのでしょうか。実際のその場所は、ゴミがあったり、汚かったり、虫がいたり、臭いがあったり、騒音や排気ガスもあるので、辛くなると思うのですが…。おそらく聖地巡礼をしている人は違いには目を向けず共通点だけを見ているのです。彼らはその現場に行きたいというよりはむしろ、アニメの世界に入りたいというのが本当の気持ちだと思います。私にはどうもついていけません。私がアニメに求めているのは『ガンダム』のような架空の世界なので、アニメの中に写実的な現実世界が登場すると、なんだかげんなりします。いくら美しいからといって、現実は見たくないというのが私の思いです。現実の風景の美しさをアニメの中で再発見したいという願望が、私には無いのです。せっかくの技術があるのならば、これまで見たことがないような世界を描いたらいいのに、というのが私の考えですが、このあたり、多くの視聴者の心をつかんでいるのだろうなと気がします。ちょっと電車で行けばいけるようなその場所を、驚くほどにきれいに描いて表現する。そういうのが魅力となって人気があるのだと思います。

2.登場人物がまるでアイドル。
 立花瀧も宮本三葉も、周囲のおじさんやおばさんさえも美しい姿です。(おじさんやおばさんといった人々の登場シーンは最低限度に抑えていますが、もっとしっかりと描いて欲しい。主役級と脇役の扱いの差があまりにも激しい。)特に瀧と三葉は、美形で描かれています。当然というかもしれませんが、私にはこれがついていけないのです。私のイメージでは『ガンダム』にしても『銀河鉄道999』にしても、主人公はそんなに色男ではなく、むしろダメ男として登場するのですが、それが物語が進むにつれてカッコよく見えてくるという、そういうのが好きなのです。「君の名は」の男女は、一見したところ、とても美しく描かれています。しかし人間としての描き方はどうでしょうか。さりげない普通の表情は描かれています。瀧も三葉も、日常生活に不満を持ちながらだらだらと生活しているような印象です。それなのに雰囲気だけは綺麗に描かれています。アイドルですから、あんまり人間くさい部分や失敗や挫折や迷走や、恥ずかしい姿なんてのは一切出さないのです。高校生の男の子といえば常にエッチなことを考えているのではないでしょうか。それを忘れるためにスポーツや勉強に打ち込むようなものです。彼は、熱い部分はもっておらず、だらだらと毎日を過ごしているように見えますが、かといってそれが堕落しているというふうでもなく、なかなかのキザ男です。もがき苦しんでいるようではなく、やはり、アイドルっぽく描かれているのです。私は、特に何もしていないのに綺麗に描かれているというのが、どうも苦手です。私は、見た目がブサイクなのに映画を見た後で、魅力的に見えてくるというような展開の映画が好きなのです。本作はアイドルのようにとらえることから、そういうのが好きな人の人気を集めていると思います。

3.省略が多く、展開のペースが早いこと。
 後でよく考えれば分かることなのですが、最初にぱっと見た時にはよく分からないような流れです。全く分からないほどではないのですが、なんとなく、あこういうことか、と思いながら見るようなレベルです。時間軸をいじくっていたり、省略を多用したりしているので、少し分かりにくいです。視聴者は、必死でついていくような、そんな気持ちになります。序盤は、それこそ細かなところまで伏線だろうなと思いながら見ていました。だらだらと進むのではなく、ぱっぱっと進むのです。そこに数多くの謎が張り巡らされていて、中盤ではサスペンスっぽく展開します。私は、デビッドリンチ監督やクリストファーノラーン監督のようなサスペンスは好きです。本映画では、そのパワーを(だいぶ薄めてはいますが)感じました。少しずつ映画全体を支える仕組みというか論理というかそういうものが少しずつ見えてきて、あ、そういうことかと分かるあたり。ファンタジックでもあり、サスペンス的でもあり、ホラーちっくでもあります。このあたり、私は高く評価したいと思います。この点も、この映画がうけた理由だと思うのです。映画は100分くらいでしょうか。本当はもっとじっくりと描いて2時間くらいになるはずです。それを削って削って、あっという間に終わるようにして、もう一回見に行こうと思わせるのです。消化不良の映画を意図的に作り上げているのです。それが適度な範囲であって、これはなかなかの良い戦略だったように思われます。
 ただしトンデモ設定は、一つか二つくらいにしておいて残りは現実的に展開した方がいいと思います。隕石が同じ場所に落ちるから始まって、タイムスリップ、身体交換、記憶と記録の削除、特殊な能力が受け継がれる家系など、だいぶ多いような気がしました。あんまり多いとご都合主義というか、強引さを感じてしまいます。
 後、申し訳ないようなのですが、あの歌がイヤでした。前前前前世云々という、あのせわしくてだだだだっと喋りまくるような、それでいてパワーも情熱も感じないようなあの歌い方。見ている側を急がしているような、口を半分くらいしか開けてないような歌い方、ああいうのが流行しているのでしょう。好き嫌いの問題なのでしょうか。しっかりした詩なのかもしれないのですが、聞きたいという心境にはなりませんでした。気持ちがノリノリな時に流れるならばいいのですが、決してノリノリでないのに、強制的にノリノリになれと言われているような心境でした。最後の方に流れる優しい雰囲気の方「なんでもないや」は、あれは良かったと思います。あの曲は三葉が歌った方がしっくりくるかも。

4.少女マンガのように進む恋愛話
 私が最も嫌なのは、まるで恋愛映画のように進行するという点です。最初の入れ替わったあたりは冗談半分のように騒いでいるようでしたが、本当ならばもっと深刻な話です。とても軽い話のように流していて、ドタバタコメディのようで、ついていけませんでした。多くの視聴者は、恋愛物語だと思ってみているので、好きな者同士の冗談半分のケンカだととらえていくのでしょうね。私だったら自分の人生に横から入ってきてぐちゃぐちゃにされたら本気で怒ります。男が女っぽくなり、女が男っぽくなったということだけで、お互いが好きになる、という展開はあまりにも強引だと思います。お互いが惹かれていくのであれば、人間的魅力というものに気づいていくことが必要不可欠です。身体が入れ替わった後で、やはり男は男らしく、女は女らしいというのが、分かってくる。瀧は自分の心の中に熱いものがあったことを自覚し、三葉は伝統文化の素晴らしさに自覚する。自分というものがはっきり自覚し、その上で相手の存在もはっきり見えてくる。そんな時に、お互いが「かけがえのない存在」として見えてくるのではないでしょうか。自分なのか相手なのか分からないようなごちゃまぜにしたような状態は、恋愛というよりかはむしろ性行為のようなものです。恋愛が恋愛として盛り上がってくるためには、唯一のかけがえのなさが必要だと思うのですが、その要素は殆ど感じられませんでした。
 さらには、二人が息があって楽しそうに会話をするシーンは、ありましたか? むしろ罵倒しあっているように見えました。ここの部分は、私には全く理解できず、むしろ不快でした。三葉は、目の前の男がただイケメンだからときめいたのではないか。瀧は、目の前の女の子がただたんにかわいこちゃんだからドキドキしていたのではないか。身体が入れ替わる先は、イケメンであれば誰でも良かった、ということではないか。それにしても手のひらに「すきだ」って書いてしまうのは、違和感があります。
 映画のつくり方としては、ドキドキするシチュエーションをこれでもかと流していき、その結果、理由は分からないのだけれども恋愛になりましたというふうに描くことの方が適切なのかもしれません。(恋愛映画って、視聴者が疑似体験するように作っていると思われます。)細かなプロセスは省略して、たんたんたんと曲を流して、はい、好きになりました、ということにしておいた方が適切なのかもしれません。人間の中身をむしろ空っぽにしておいて、交換可能な状態にしておいた方が、映画を見た人すべてがそこに自分を入れ込むことができます。こういう形にして女子高生の気持ちをぐっと引き寄せて作ってみました、ということだと思うので、戦略としては正解です。そういうのも本作の人気の理由だと思われます。

5.抽象的なセックス?
 私にはとてもエロティックな印象を受けました。朝、布団から起きたシーンなんかは、非常に性的な描き方をしています。たんに男女で身体が入れ替わるという話ではありません。男の視点で女性として振る舞う。女性の視点で男性として振る舞う。そこにもエロさはあります。推察してみましょう。私(男)という身体の中に、見ず知らずの女性が入り込んでくるのです。私の視点は、見ず知らずの女性の心の中にぽんと入り込んでいき、彼女の全ての生活や身体を全て手にするのです。混じり合うという現象。確かにセックスシーンはありませんが、セックスよりもセックス的です。視聴者は男から女、女から男という二つの現象を追体験していくのです。この映画でドキドキしている人というのは、いわが抽象的なセックスを感じて喜んでいると思うのです。
 みんなそういうふうには言いませんよね。「あの映画のエロいところが好きだ」等とは誰も言っていないので、私には不可解でした。みんな本当は心の底では意味のある深いセックスがしたいなんて思いをもっていて、本作を見るとそれがじっくりと充足されていく。そういうところに、本作がうけた原因があると思いました。こういう形にして男子中高生の気持ちをぐっと引き寄せて作ってみました、ということなのでしょうか。戦略としては正解です。

6.奇跡が起こり、二人が出会う。はかなさ。
 映画で人気があるのは、あのシーンだと思います。夕日の直前に、なぜか空間がねじれて?二人が会うことが出来るというシーンです。相手と会いたい。会いたいのだけども会えない。時間も場所もずれているから。自分のすぐ耳元にいるような存在ですが、しかし面と向かって会うことはできない。そして、やっと会えた。会えるのは一瞬。ゆっくりは話が出来ない。言いたいことも言えない。あああああっ そんな雰囲気でしょうか。会う時間というのがかけがえのない時間になります。このシーンが印象的なのは、なぜでしょうか。現代人にはこういう感覚は殆どありません。携帯電話やパソコンを使えばいつでもどこでも連絡はとれます。遠くにいても近くにいるかのごとくに話が出来るのです。しかし心はとても離れている。なんだか寂しい話ですね。それが現実です。一方この映画は反転しています。最も近くにいるはずなのに、心は重なり合っているはずなのに、あまりにも遠いところにいて会えない。必死な表情でお互いを探し求めていく。きゅん。きゅん。この場面をクライマックスに持ってきているから、この映画は人気なのでしょうね。おそらく、現代人が失った「かけがえのない出会い」をここで演出しているようです。
 映画はその後、記録や記憶が消えていくというシーンに入っていきます。このシーンが印象的なのは、なぜでしょうか。私たちの現実世界は逆なのです。一度でも電話番号や所在を知ってしまえば、それは永遠に記録されます。記録や記憶は長期的に残るので、結果的には、先に、「感情の方」が消えていくことになるのです。記録や記憶はいつまでも残っているからこそ、気持ちは薄らいでいくと言ってもいいでしょう。「いつでも連絡がとれる」と思えば、今伝えなければならない理由もなくなり、気持ちを強く維持するために積極的に声をかける必要性もなくなっていく。その結果、関心や熱い気持ちが薄らいでいくのです。記録は永遠で、気持ちだけが冷めていく。それが現代における大半の関係性なのです。関心があるのに記録が削除されるなんて機会は、めったにない。ところが、この映画は気持ちが100なのに記録が0になっていくという状況を描いていきます。その結果、「気持ちの存在」が浮かび上がってくるのです。「かけがえのなさ」が強調されるのです。記録と記憶が消えていこうとすればするほど、気持ちや感情だけが残っていき、そこに悲壮感が出てくる。みんな、心の奥底では、自分の感情や意思というものがしっかり存在しているというさまを感じたいのだと思います。
 こういう形にして中高年のみなさまの気持ちをぐっと引き寄せて作ってみました、ということだと思うので、戦略としては正解です。しかし私は、映画の流れの中では隕石衝突というパニックの方に関心が向いていたので、ここにドキドキする余裕はありませんでした。

7.パニック映画
 引き続き、先に示したシーンについてです。あの瞬間というのは、村の人々を救うか救えないかという瀬戸際の瞬間でした。好きとか嫌いとか、忘れてしまうとか、そういうことではなく、一瞬でも無駄に出来ずにいち早く村の人々を救うべきなのです。「私のおっぱいさわったやろ?」等と冗談を言っている場合ではないのです。消えてしまう記憶やかけがえのない時間云々よりも、村の多くの人々の命の方が大切です。あの映画のシーンで、私はブーイングでした。げんなりしていました。この感想は私が『タイタニック』を見ている時にもありました。ローズが救命ボートに乗ったにもかかわらず、ジャックと一緒にいたいという理由でボートを飛び下りてしまうのです。本来はまず助かるという道を探るべきなのに、とても変な印象を持ちました。これは恋愛映画には共通するのかもしれませんが、命よりも恋愛感情というものを上に置くようなそんなスタンスのようなものを感じました。私だけでしょうか。
 この映画は、半分はパニック映画です。そこにいる人々はこれから起こるであろう悲劇に気づかず、何人かの高校生だけが悲劇を予見して、なんとかしてみんなを救おうとする。そんなパニック映画です。このパニックの中で勇敢に振る舞ったのは、あの力強い男の子テッシーです。彼はとても魅力的に見えますよね。ところが三葉はパニックで困惑している状況の中に、「名前を忘れてしまう」と嘆くのです。「そんなこと、どうでもいいだろ?」と言ったテッシーの気持ちの方に私は共感します。
 映画の流れはパニックシーンです。見ている人は、パニックがゆえにドキドキしているはずなのです。しかしパニックの際には、女の子は近くのイケメンがカッコよく見えるし、男の子は近くの美少女を助けたくなるものです。ジェットコースター効果っていうのでしょうか? 死ぬか生きるか、人々を救えるかどうかというドキドキをしているのに、見ている側は(結局はアニメなので)恋愛のドキドキだと感じてしまう。パニックと恋愛をごちゃまぜにしてしまえば、勘違いしてしまう。要するに、映画を見ている人たちはある意味でごまかされているのです。恋愛でドキドキさせたいのだけれども、恋愛だけではドキドキには限界があるので、パニックの要素を入れてみる。そうやって映画を盛り上げていくのです。これも戦略としては見事です。で、私はパニックのドキドキにはついてけるのですが、それと恋愛のドキドキは違うと思っているので、あのシーンはのめり込めなかった、ということになるでしょうか。

8.最後の再会シーンについて。
 男の子が電車でうろうろしていて、なかなかうまく行かない日々の中、名前を忘れたあの女の子と再会していくシーンがあります。こっちから見れば、遠いところにチラリと見えるあの子を探し求めていく、という姿が描かれていき、突然女の子が大声「誰かを…探していた!!」で入ってくるシーンです。私も少しだけキュンとしましたが、よく出来た演出だと思いました。ドキッとして驚いた、というのが実際のところです。恋愛映画ではよく使われている技法なのかもしれません。
 お互いが再会できたとして、どんな言葉をかけていくでしょうか。記録と記憶は消えてしまっている。身体が入れ替わったといった記憶も消えているのでしょうか。だとすれば本当に何も分からないということになります。ただ、たんに、どこかでお会いしましたよね、という漠然とした思いだけが残っているわけです。それゆえ話すことはありません。視聴者は、あ、なるほどこういうことがあって、「赤い糸で結ばれる」ということになるのかな、なんて思うのです。多くの視聴者は、自分にもそういうことがある、一目ぼれには必然性がある、なんて思うのでしょう。理由も分からず涙があふれる、なんてことをよく経験するのでしょう。運命とか前世とか、恋愛は先験的なものだと思っている人は、ビビッとくるでしょうが、私は共感できませんでした。そもそも、そういうことを信用していないので。
 また、この映画の流れでいえば、もし記憶があったとすれば、「命を助けてくれてありがとう」「大変な危機を上手く残り越えることが出来て良かったな」ということになると思うのです。そもそもこの映画の中では二人は好きになっていないのです。様々な状況によって好きだと錯覚してしまい、その感覚だけがうっすら残っている。確かに映画は美しいように見えるのですが、表面的で単純な仕組みによってそう思わされているような気になりました。どうも私には、妄想のように思えてくるのです。

 映画としての完成度は素晴らしいと思いますが、好きではない。そんな感想でした。
 以上。
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Posted on 2018/01/13 Sat. 01:02 [edit]

category: アニメ・特撮

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