映画『セーラー服と機関銃』感想  

 薬師丸ひろ子主演のこの映画は、女子高校生がヤクザの組長になってしまうという話です。高校生が組長になるという設定、主人公の星泉がどうやって生計を立てているのかという点、ヤクザ同士の争いで人がバタバタと死んでいくところなど、おかしな点は多々ありますが、それは一切気にしません。あちこちで様々な紹介や議論がありますので、ここでは物語について検討するのではなく、私が特に感じたことを述べていきます。
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1.
 相米監督作品に共通する技法なのですが、本映画全体でもカメラが遠いところに設置されているような撮り方が多く用いられます。例えば星泉(薬師丸ひろ子)とマユミ(風祭ゆき)との会話シーンです。マンションの窓の外から中を覗きこんでいるような撮り方をします。ゆっくり移動するのですが、植物とか柱などが邪魔をしていて、中の位置や部屋の様子が、よく見えません。アップはなく、顔はよく見えません。しかもそれを長回しで撮影するのです。
 このような撮り方は、本映画の殆どのシーンで共通しています。多くの映画を見慣れた人からすればきっとイライラすることでしょう。見えにくいし、分かりにくい。単調で変化がない。そんなふうに見えます。ところがしばらく見ていると、ドキュメント番組のようなリアリティが感じられます。人物たちの生き方とか、呼吸とか、人々の間の距離感などが、伝わってくるのです。私たち視聴者は「彼らの世界」とは離れた地点にいるので、その地点にいるというところからスタートするのがむしろ自然なのです。多くの映画は、このような何気ない会話でさえ、アップにしたり動きをつけたり、カットを多用して撮影していきます。とにかく視聴者が見たいものをどんどん並べて見せてくれる。演出が過度になっていき、結局それはリアリティをそぎ落とすことになるのです。漫画かCMのようです。また本映画はBGMが殆どありません。劇中のギター弾き語りの歌とか、ハーモニカの演奏などが、BGMのように機能していることもありますが、それはBGMではなく、人物がそこで演奏しているのです。改めて考えれば、私たちの日常生活にBGMは流れないのですから、こちらの方がむしろリアルです。普通のドラマや映画は、BGMががんがん流れ、役者は泣いたり暴れたり大喜びしたり、全ての自分の感情をセリフにしてべらべら喋ってしまう。結局のところそれら全て、補助的な効果に過ぎません。補助的な部分が肥大化して、まるでCMのようにまとわりついてくるだけです。本映画は、それとは異なる、徹底的なリアリティを示していると思います。

2.
 さて、続けていくつかのシーンを取り上げてみましょう。
 地蔵菩薩坐像の前の広場から、目高組ヒコ(林家しん平)とともに暴走族のバイクに乗って新宿を走り出すという非常に長いシーンがあります。私は、星泉の心境をうまく表現したシーンだと思います。父が急死し、しかもそこには陰謀のようなものが見え隠れし、ヤクザの世界に飛び込んでしまい、その上部屋をぐちゃぐちゃにされたというのが、泉のその時の状況です。うまく自分の心の中が整理できないはずです。そんな時、さようならと言って一人になるのが怖い。泉は「にぎやかな気分でいたい」「一人になりたくない」といって、バイクに飛び乗ろうとするのです。気持ちが爆発する。風を切る。そんな姿です。泉が涙を流したのはなぜでしょう。悲しいから泣くとか、嬉しいから泣く、というのではありません。様々な感情が一気に噴き出るから涙がどっと出てくるのです。
 黒木刑事(柄本明)が目高組メイ(酒井敏也)をひたすら殴り続けるというシーンがあります。これも離れたところから撮影されています。しかも長回しで、じっくりとその暴力的な姿を描いていきます。まるでその場で、たまたまそこに居合わせた住人が、とんでもない姿を目撃してしまったかのように思えてきます。最初は刑事が入ろうとするのをチンピラが阻止するという姿に見えます。刑事が数発殴っているあたりは、なかなかパワフルな刑事だなというふうに見えてきます。しかし長回しで繰り返し殴り続けているあたりを見ると、しだいに「本当にこの人、刑事なの?」「どっちが正義なの?」と思えてくるのです。また、そんなふうに思わせようとしているのです。長回しでその時間的な感覚をこちらも得ているからこそ、そういう実感が少しずつ湧いてくるのです。時間というこの感覚がとてもリアルに描かれている。凄いと思います。
 浜口物産への殴り込み(アクションシーン)の後、目高組の政(大門正明)が死に、ビルの屋上で目高組の解散を決めるシーンがあります。それもまた望遠レンズでの離れたところからの撮影です。長回しで、じっくりと描いていきます。ひょっとしたら浜口物産の部下が、ビルの高いところから眺めている、ということが言いたいのかもしれません。このシーンは、周辺の町や車や人々が映っているということに意味があると思います。佐久間がヤクザを辞めるという、この話の中身とうまくリンクしている。すなわち目高組解散とともに、他の一般的な日常社会にも目を向けるように促しているのだと思います。
 その後、高校に復帰した泉と男子3人が校庭でボール遊びをしているシーンに移ります。非常に低い目線で、遠い地点から眺めています。私は思うのです。これはおそらく、映画を見ている人がどことなく気落ちしているのを描いている。普通の人の普通の感覚に戻ってくるわけですが、なぜか気持ちが沈んでいるということを表現しているのです。
 刑事(斉藤洋介)に案内されていくと、そこには佐久間真(渡瀬恒彦)の遺体がありました。長回しで、遠いところから撮影していきます。そしてぐぐぐっと迫っていき、口づけをするところはかなりのアップです。泉の表情がとても詳細に分かります。なんでしょうね、この圧倒的な迫力。それまで遠いところからじっくり撮影していて、ほぼそれに慣れてしまった時に、その慣れを壊すのです。泉の強烈な感情が、どっとこちらへ押し寄せてくる感覚です。私たち視聴者はこれまで遠くで見守ってきたのですが、ここへきて、まるで私に口づけをしているかのような感覚を得るのです。映画館で見たら本当に驚くと思います。セリフはありません。しかし多くのことが伝わります。泉にとって佐久間は父親のような、兄のような、彼氏のような、頼りになる存在でもあり、愚かな存在でもある。今度は、お互い普通の人間として、普通に出会いたかった。そして自分の素直な好意を伝えたかった。しかし死んでしまったらそれは出来ない。喧嘩を仲裁して死ぬなんて… 好きだったのに。せっかくかたぎに戻ったのに… とても悲しい。そんな心境だと思うのです。ただのアップですが、非常に、心を揺さぶるシーンです。このアップを感動させるために、それまで遠い地点から撮影してきたのではないかとさえ思えてきます。

3.
 その他、私が気になったシーンを紹介します。
 映画の最初のあたりです。高校の美術の時間でしょうか。泉が絵を描いているのですが、明らかにマユミが描かれています。しかし実際には、高校の授業ですから、マユミを(しかもあそこまで写実的に)描くわけもなく、クラスの仲間を相手にしているはずです。おそらくは泉の意識では、マユミのことが気になってしかたがない、表向きは警戒していながら、心のどこかでは憧れているということだろうと思います。泉がマユミに対して、理想の母や姉を投影していることが分かるシーンです。
 部屋がぐちゃぐちゃに荒らされ、黒木刑事がやってきたシーンです。泉がドアをのぞき込むとそこに黒木が見えます。そのまま魚眼レンズでのシーンが続きます。ドアの小窓を覗いた時の心境をそのまま引きずっているということでしょうか。ぐちゃぐちゃにされた部屋を見て頭が混乱している(遺骨に向き合っている間は冷静な自分に戻れる)ということでしょうか。

4.
 本映画が基本的にはアイドル映画であるのは、確かです。しかしそれはかわいらしいアイドルが笑ったり、悲しんだりする姿を見て喜ぶようなアイドル映画ではありません。一見するとごく普通の女子高校生が、汚れた男たちの中で、ひときわ美しく輝いていく姿を描く、という映画なのです。
 泉が単身で松の木組に殴り込みをかけに行き、コンクリートに沈めされるシーンがあります。とても衝撃的なシーンです。いわば男と男のゴリゴリした世界観の中で、女子高校生をいじめ、もてあそぶ。裸になったわけではないのですが、それはレイプを連想させます。(太っちょのところでは、もっと過激な拷問を受けます。)ある見方をすれば、純粋で明るい女子高校生が、男同士の汚い関係にどんどん染まっていく、というふうに見えます。しかし逆に言えば、弱さと汚さを備えた男たちのことを理解し、受け入れ、さらには優しく包み込んでいく過程とも言えるのです。
 泉は目高組のヒコやメイのことを少しずつ理解していきます。彼らは勉強が出来たわけではない。学校を出た後も普通に働くことなんてできない。そんな彼らの生き方を知るにつれて、彼らに共感し、彼らが死んだら深く悲しむのです。まっすぐな眼差しで生きる泉の姿を見て、周囲の男たちは皆、泉に惹かれていきます。そして自分自身の弱さや醜さをさらしていく、自分自身でそれを認めていくのです。偉そうにかっこつけてばかりいるけれども、前に進むのが怖いだけ。佐久間真はそんな自らの姿を自覚し、改めようと決心していきます。まるで映画『モモ』のようです。
 これは解釈の問題かもしれませんが、結局のところ、私たちもまた、ここで登場する愚かな男たちに似ているのです。プライドをかけて、吠えたり、喧嘩をしたり、かっこつけたりするのです。ヤクザという遠い世界の話のように見えて、実は私たちの心の中の愚かさでもあるのです。そしてそれを、星泉は優しく受け止めてくれるのです。このような映画を見れば、当然のごとく、主人公の星泉のことが好きになってしまいます。もとは、決して美人でもないし、アイドルのような爽やかな笑顔も、雰囲気もありません。しかし、なぜか、映画を見終わる頃には、とても魅力的な聖母に見えてくるのです。不思議です。
 この映画が成功したので、次からも多くのアイドルが同じ名前の映画に挑戦していくのですが、うまくいったとは思えません。本映画は、ごく普通の女子高校生が、男たちの中でもまれて変化していくというそのプロセスに意味があるのです。最初からアイドルでは、変化を妨げてしまいます。この映画をリメイクするならば、この映画の深いところの精神性を高めるようにリメイクするとよい。
 ふと思うのです。今、私たちは女性をちゃんと見ているのでしょうか? 勿論、肉体や笑顔は、いやというほど見ています。グラビアやビデオで女性をつかまえようとしているのですが、それではどんどん離れていくだけです。女性の姿をしっかりとらえ、しっかり知るというのは、女性の肉体だけを眺めるのではありません。女性が社会の中でいかに生きていくか、男たちといかにかかわっていくか、男たちが彼女たちに惚れ、そして彼女たちもまた男たち(特にその弱い部分)に寄り添っていく。女性の魅力を最大限に引き出すということは、その関係を描くことだと思います。

5.
 最後のシーン、主題歌についてです。
 主題歌「セーラー服と機関銃」は、歌詞の中には「セーラー服」も「機関銃」も出てきませんが、よく映画の内容を表現した詞だと思います。この主題歌は、もとは「夢の途中」として来生たかお氏が歌う予定でした。相米慎二監督が、薬師丸ひろ子に歌わせたいと提案して、彼女が歌うことになったといいます。映画では薬師丸バージョンが使用されましたが、来生たかおバージョン「夢の途中」もレコード発売され、どちらもヒットしました。(ウィキペディアより)
 この歌詞は、まず高校生くらいの少女が、たまたま偶然に出会った中年男性に恋をする。本気だと告白する。それを受けてその中年男性が少女に向けて「さよなら」と言う、そんな歌だと思います。スーツケースに詰め込んだ希望という荷物を持ちあげていくというのは、その少女にはこれから明るい未来があるということを指しています。僕のことは小さくメモしておくくらいでしい。今、君は夢を見ているようなものだ。僕の気持ちは、君をしっかりと抱いてあげたいのだけれども、それは出来ない。今僕は君に「さよなら」と言うけれども、また再び逢えると思う。もしこれから10年たって、いろんな人と出会って、愛することに疲れてしまうようなことがあれば、もう一度逢おう。おそらくはそんな歌詞です。本映画に深くマッチした、素晴らしい曲です。
 さて、問題は「夢のいた場所に、未練残しても、心寒いだけさ」という部分です。薬師丸ひろ子がレコーディングをしている最中にも、来生えつこ氏が詞の内容を頻繁に変更していたらしく、差し替えミスが発生したというのです。「夢のいた場所に、未練残しても、心寒いだけさ」は、おそらくは差し替え前で、試行錯誤の末に改めたのが来生たかおバージョンの「夢の途中」です。差し替え後は、「現在を嘆いても、胸を痛めても、ほんの夢の途中」という歌詞となっています。作詞家の意図としては来生バージョンの方が正しいということになるのですが、二つを比べると大きく違うと思います。来生バージョンは、「今あなたが、僕のことを好きだと言ってくれたけど、君は夢の途中なのだから、泣いても傷ついても、それはどうということはないでしょ」というニュアンスです。薬師丸バージョンもまた、「今あなたが、僕のことを好きだと言ってくれたけど、これは夢の中の話なんだ」という点は同じです。「未練」とは何でしょうか。私の解釈では、「この中年男性と少女が結ばれない」ということを指しているのだと思います。「心は寒い」というのは、少女の心が寒いというだけでなく、中年男性の心も寒いということなのです。「寒いだけ」という言葉は重要です。心が寒いというだけのことだから、その程度のことだから、お互い忘れてしまおう、ということだと思う。つまり、来生バージョンは、中年男性が一方的に「気にすんな」と言っているのに対して、薬師丸バージョンは、中年男性が「僕も寂しいんだよ」と言っているようなのです。私には、この歌詞の差し替えミスが、ミスだとは思えないのです。ひょっとしたら、映画製作者の側が、意図的に、差し替え前を採用したのだと思います。
 来生たかお氏が歌う「夢の途中」は、そのままストレートです。あたかも来生たかお氏本人が、高校生に告白されて、断っているかのようなそんな印象になります。しかし薬師丸ひろ子が歌うと、全く状況は変わってきます。しかもこの映画の最後に流れるととても深い意味を帯びてきます。本映画で、星泉は、佐久間真に、心から惹かれていきます。本当に好きになっていきます。それに薄々感じているのかもしれません。佐久間真はヤクザから足をあらい、東京を離れるのです。そして数か月後に星泉に逢いに来たのです。この歌は、佐久間の心を表現している。しかし残念なことに、佐久間は死んでしまう。そこで、佐久間の気持ちを、佐久間になりかわって、星泉が歌うのです。星泉は、歌詞を自分の心境に重ねているわけではなく、ただ佐久間の心境をなぞるように淡々と歌うのです。薬師丸ひろ子の歌い方に工夫や変化がない、ということがここではとてもよい効果を生んでいます。そんな最後の場面なのです。歌がほぼ終わり、全ての物語が去ってしまった後に、ただただ、爽やかな風が吹きます。子どもと遊んだり、スカートの下に風が入ったりする。機関銃を打ち付けるなんてことを、全て遊びや思い出の中に閉じ込めていく。そして自分が「愚かな女になりそうです。」と明るく、ささやくのです。まさに、爽やかな風なのです。
(1981年公開、東映、相米慎二監督)
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Posted on 2016/10/09 Sun. 22:23 [edit]

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