映画『台風クラブ』感想  

 いろんな意味で良い映画でした。生徒たちの素直な気持ちや当時の学校の雰囲気がよく伝わります。また終わった後もいろいろと考えたくなるような、そんなインパクトの強い映画です。勿論ハリウッド映画のようなテンポの良さやダイナミックな動きはありません。しかしそこには学校や中学生の生きた姿が描かれ、しかもとても深いものが描かれているように思えます。以下様々な解釈をしてみたいと思います。
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1.全体的な雰囲気について。
 本作は荒れる中学校の様子がよく描かれています。(私は、この作品が製作された頃に中学生でしたから、当時の状況がよく伝わります。)夜のプールで遊んでいて事故になりかけたり、教室のうしろでプロレスごっこという名のいじめをしていたり、塩酸をかけられて悲鳴をあげている後ろで笑い声が聞こえたり、という、笑いと暴力が混在した状況です。こっちで真剣に勉強しているその真後ろで生徒が悲鳴をあげていて、その隣で大笑いしているというそういう空間です。この空間にいると常識や水準が分からなくなってしまうのです。山田明(松永敏行)という男の子は、子どもっぽい悪ふざけをよくする子です。いじめられたり、暴力を受けたりするのですが、へらへら笑って流そうとする。それは彼なりの防衛策なのかもしれません。三上と理恵が歩いている際に、自転車が猛スピードで通りぬけるというシーンもあります。台風が近づいているために急いで帰宅せよとアナウンスが流れているのに、運動部は体育館で練習をしているというのも、とてもリアルです。水というのは、非常に怖いと思うのです。一歩間違えれば大事故を起こすであろう、そんな危険と背中合わせの中、生徒たちはゲラゲラ笑っているというそういう世界です。
 今の子どもたちがこの映画を見てもあまりにも非現実的でリアリティを感じないかもしれません。1980年代というのは、携帯電話もインターネットもない時代です。直接会って話をするということしなければ、何も得られないのです。誰かがスマホに情報を書き込んだり、写真をとってネットに流したりということがないのです。ですから極めて閉鎖的な空間が出来上がるのです。映画の中では人々がテレビを見るシーンがありませんが、それによりいっそう閉鎖感が表現できています。学校の中は非常に荒れていて、秩序が崩壊しているのですが、外の目や指摘が入ることは滅多にありません。その一方で、地域社会は何も問題がなく、平和で安定した農村でした。最も荒れているのは中学校の中です。しかも不良と呼ばれる子どもたちがやりたい放題でした。いじめられるような子も、頑張って学校に通っていました。この時代は2次ベビーブームの影響で子どもが溢れていました。今現在であれば僻地は本当に子どもが少なくて、学校も統廃合をする時代です。80年代は、それこそ膨大な数の生徒が学校に集まり、それをごく少ない教師だけでコントロールしようとした時代なのです。秩序を維持するためには、体育会系の怖そうな先生が怒鳴りまくるということがどうして必要だったのです。細かなところには配慮が行き届かなくなります。対応するだけの余裕がないのです。生徒たちが帰ってしまったと思い込んで鍵を閉めてしまうというあたりも、無責任というよりは、いかにも当時の雰囲気だなという印象です。
 私にはこの梅宮安(三浦友和)というクラス担任の振る舞いが、よく分かります。彼は勿論、堕落しているわけでもないし、無責任なのでもない、身勝手なのでも、暴力的なのでもありません。このあたりは現場の雰囲気についての理解が必要です。生徒たちが乱暴で収拾がつかなくなったり、トラブルが連続して起こったり、そういう雰囲気の中で、先生という地位を保つために、彼のような振舞いになるのです。真面目に厳しく指導しても誰もついてこない。(真面目というのは、むしろキモチワルイという意味に近い)それゆえ多少なりともいい加減な部分が必要なのです。冗談を言って笑わせるというのはとても必要な技術です。気になることが一つあったからといってただちに発狂していたら身体がもたないので、見て見ぬふりという技術が必要となるのです。生徒たちは日々乱暴であり、それがある程度の範囲を越えた場合には、先生はそれにも増して乱暴である必要があったのです。非常に口が悪い。汚い言葉を平気で使ってしまうのですが、そういうふうに振る舞うしかなかったというのが、当時の状況感覚だと思います。このあたりは、現代の若者には理解できないかもしれません。先生は、壊れてしまう寸前のところで、何とか現状を保つためにあんな振舞いをしているのです。ただし荒れ具合がこの程度でとどまっているというふうにも言えます。いっそう高校進学が重くのしかかってくると、生徒たちがいっそう暴力的になり、それを抑えるために教師たちもまたいっそう暴力的になります。本作ではそこまで行っておりません。
 夜中に中学生たちが学校のプールに侵入して、遊んでいます。地域の人がすぐに見つけて通報するということはしません。生徒たちは夜に家を出ているわけですが、それ自体が大きな問題になることもありません。そのことをめぐって親子でケンカをするようなこともありません。かつてはケンカをしたかもしれませんが、もうそれも疲れてしまったのです。主として家庭が様々な問題をかかえている場合に、生徒たちは家を飛び出してしまいます。親としても、夜に家を飛び出しても、いずれ帰ってくるのであるから、多少は放っておこうという感覚があったのかもしれません。みんな、それぞれ、何かを抱えているのです。(今は、夜中に集会をするなんてことはあまりしません。むしろLINE等の方に夢中になっていると思うのです。夜と昼の違いよりも、リアルとバーチャルの対立の方がより重くのしかかっていると思います。)
 こうした環境の中で、最終的には様々な経緯で、台風の中、子どもたちが学校に残ることになります。皆、自分の意思で学校に残ることにしたのです。夜の中学校って何か楽しいという不思議な感覚、あるいは自宅にいても面白くないという感覚もあったことでしょう。

2.中学生たちの心境について。
 基本的には生徒たちは、カッコつけたい、目立ちたい、威張りたい、あるいは大人の雰囲気を味わいたいという気持ちを抱いています。彼らがタバコをくわえているのも、そのような理由です。アイドルに興味を持ったり、スプーン曲げに挑戦したり、教室で乱闘騒ぎが起きたり、様々な風景が印象的です。彼らの頭は、彼ら自身の行動をうまくコントロールできていません。意識よりもむしろ肉体や性器の方が先に動き出しているようなところがあるのです。それが思春期なのです。そういうものです。言い方を換えれば、「愛が欲しい」ということになるのかもしれません。家庭に不満があればあるほど、満たされない欲望が湧き出てきます。ただし、どんなに親から愛情をもらったとしてもなお、それでもなお、性を求めるエネルギーは満たされないでしょう。何かをしなければならない。まるで何かに突き動かされているような、そんなエネルギーです。特にエネルギーが爆発するのは、昼間(理性)ではなく夜(感性)です。その先に何があるのか、自分たちが行動することによってどうなるかなどを全くといっていいほど考えません。それもまた中学生特有の雰囲気です。現在は、情報化の中で、将来のことや進学のこと、世界のことや当該地域のことが頭に入ってきます。常に誰かが目を光らせています。閉鎖された空間そのものが成立しなくなり、エネルギーを爆発させる空間そのものが見いだせないということになります。今の中学生たちにとってのエネルギーの爆発先は、インターネットなのかもしれません。
 さて、演劇部3年生の宮田泰子(会沢朋子)と毛利由利(天童龍子)は同性愛的関係にあります。とはいえ、本当に同性愛なのかどうかは怪しいところです。宮田はリーダー的存在で、男子生徒よりもいっそう力強い存在のようです。宮田からすれば、目の前の中学生男子は子どもっぽく見えるのかもしれません。理想的な男性の姿を演じて遊んでいるようにも見えます。マンガやテレビのシーンを真似してカッコつけているようにも見えるのです。毛利の方は祖母が死にそうで、そのことを気にしています。父母が大変な介護をしているのかもしれません。もしこの2人だけであれば、どんどん2人だけの世界に入っていき、毎日、性にのめり込んでしまうかもしれません。ここで森崎みどり(渕崎ゆり子)の存在は重要です。彼女が間に入ることで、二人の性的な関係に歯止めがかかり、そのエネルギーをダンスの方へと開放することが出来るのです。姉御肌なのは宮田ですが、真にみなをまとめているのは森崎の方です。ところで森崎が梅宮に同情的なのはなぜでしょうか。森崎のスタンスは、適度なところでとめておくというスタンス、自分の目標に向けて突き進むのではなく、ちょうどよいバランスで皆をつなぎとめるというスタンスなのです。それは梅宮と非常に近いところにあります。彼女は梅宮を一つの人生のモデルとして位置付けようとしているのだと思います。
 地域が閉鎖的であり、中学校が閉鎖的であり、さらにそこに台風がやってきます。外に出ることが出来ないという閉鎖的な空間がそこに成立します。その空間だけの、得意な文化が形成されます。歌が聞こえてきます。「寂しがり屋はどんなもんだろう?」この歌詞は彼らの心境をうまく表現しています。絶妙です。さらに体育館へ移動し、下着姿から全裸になって踊るシーンです。常識的感覚があれば、勿論こんなことはしません。しかし情報が遮断された空間で、いわば無人島のような感覚で、女子生徒がお互いのテンションを高め合っていき、絶頂に達するような感覚を得るのです。閉鎖された空間の中で、爆発的なエネルギーは、自分の身体へと向かいます。それがセックスや踊りです。それは江戸時代の日本の農村における風習を思い出します。もし仮に男子生徒が多いのであれば、弱い女子生徒に対して乱暴するということになっていくかもしれませんが、今回は女子生徒が多い。しかも女子生徒の方が凶暴で、主導権を握っているのです。かつての日本の農村は母系社会だったといいますが、本映画は、まるでその頃にタイムスリップしたかのような雰囲気さえあります。その後、中学生生徒たちが性の遊び、さらにはセックスに至ったかどうかは、分かりません。その後に皆きちんと制服を着ているところを見ると、案外すんなり日常モードに戻れたのではないかと思います。
 本映画が、固定の隠しカメラで覗き見をしているように製作されているというのはとても効果的だと思います。「長回し」というらしいのですが。思春期なんていうのは、美しいものではありません。破壊的で、凶暴で、淫乱で、混乱しているのです。ですから私たちは一定の距離を置いて見るべきだと思います。長時間、この踊りのシーンを見ていると、次第に、中学生たちの心境が、この距離感の中で、実にリアルに伝わってくるのです。もしこの姿をアップで撮ってしまえば、裸の方に目が行ってしまうかもしれません。私たちは当事者ではなく視聴者です。彼らの世界の内側には入れないのです。あくまで遠くから推察するしかないのです。今この地点から、前へ進んでしまえば、中学生たちがこちらに気づいてしまい、とたんに世界が崩壊してしまいます。それはやってはいけないことなのです。この映画を見て、このカメラワークに不満がある人は、こう言っているようなものです。「俺が見たいものを見せろ」と。見られる側に対する配慮を一切欠いた暴力的な視線です。自分だけが特権的な地位で眺めたいと思っているのでしょう。アップにしたり変化をつけたりする映画とは、視聴者の欲望を充実させるための映画であって、リアルな世界観を表現する映画ではありません。
 全編にわたり、カメラの使い方は非常に遠慮気味です。(相米監督作品の特徴でもあります)人物たちの世界を少し離れたところから見ようとしています。部屋の外から中を見ているようなそんなアングルばかりです。じっくりとその様子を見ていると、どんどんリアリティが湧いてきて、映画であることを忘れてしまう。本当にそこにいるかのような気がしてきます。私はここに製作者たちの思い、人間の生き方に対する謙虚な姿勢を感じます。「長回し」という技法が素晴らしいのではなく、「その技法によって人間のリアリティを伝えた」ということが素晴らしいのです。
 ただしその中で例外的に、中学生の表情をアップにする場面が2回あります。美智子と明です。なんとも中学生の雰囲気を描いたシーンです。男子は純朴で幼い、女子は急に大人びて、ふわっとした雰囲気を醸し出していきます。どちらも、意識というものが曖昧で弱く、ただ肉体的な存在が先行するという姿に見えます。この二つのアップのシーンは、本当にドキッとしてしまいます。あまりにも生々しいのですが、中学生の存在をどっと見せられてしまうと、「これ以上彼らに近づかないで欲しい」とさえ思います。彼らの空間は彼らの空間にしてあげたい、そんな心境です。

3.大町美智子(大西結花)と清水健(紅林茂)について。
 なぜ、美智子は、梅宮先生の過ちを許せなかったのでしょうか。過ちといっても、恋人がいるのにいつまでも結婚しない状態にしていたということ、それから100万円を貢がせたということです。実は100万円の件は彼女がついた嘘でした。彼女は別の男に100万円を渡してしまったのに(手切れ金?)、それは言えずに、梅宮に貢いだと嘘をついたようなのです。別の男の存在を暴露しないあたり、梅宮の誠実さが伺えます。美智子は、そうした事情が全く分かりません。美智子からすれば、梅宮が「ある女性をもて遊んでいる」というその印象です。女性の純粋な心を踏みにじっているようなそんな姿に見えたのでしょう。彼らからすれば先生とは、口が悪くても、暴力的であってもいいのです。それ以上に、性あるいは女性関係については強い問題意識を持っていくのです。美智子は梅宮に対して「彼女とは真剣な交際なんだよ」という真剣な言葉を期待しているようです。美智子は、本当に真剣に生きているのかと問いかけているのです。ふらふらと誤魔化すようなことは、ここではやって欲しくないのです。
 野球部3年の清水健には「ただいま」「おかえりなさい」とつぶやく癖があります。父親は極めて無口で、子どものことにもあまり関心があるようには見えません。彼の苦悩とは、うまく家庭的な会話が出来ないということ。にもかかわらず、家庭的な温かな会話に憧れているということです。「ただいま」「おかえりなさい」というのはたんなる癖ではありません。彼が安心したい心境になった時に出てくる言葉なのです。彼はその言葉をつぶやきながら美智子に迫っていきます。恋心を抱いている美智子に何とかして気にいられたいと思います。美智子が落ち込んでいる時にはなんとかして優しく支えたい、そんな思いでしょうか。しかし美智子は危険を感じて拒否します。「こっちへ来ないで!」という言葉は、彼女の本心なのですが、清水にとってすれば非常に冷たい言葉になります。それゆえ彼は怒りをストレートにぶつけてしまうのです。「ただいま」「おかえり」とつぶやきながらドアを破壊するシーンは、とてもホラー的です。彼にとっては温かな家庭を作りたいという悲痛な叫びでもあります。「なんで僕がこんなにも君を思っているのに、君は答えてくれないの?」そんな言葉であるように思えます。
 ブラウスを破ってしまったということについては、三上も、宮田や毛利も、皆が気づいているはずです。しかしそこにはもう誰も触れようとはしません。美智子も、あれだけの大騒ぎであったにもかかわらず、決して大きな問題にしようとはしません。三上も清水を責めたりはしません。清水は、やはり反省しているようなのです。そのあたりは、優しさなのか、あるいは空気感なのでしょうか。全裸で踊りだした理由の一つは、そのことに気づいた森崎みどりが、なんとかして忘れさせようとしていたのかもしれません。「踊っちゃえば忘れるよ」なんて言いたいのかもしれません。全裸で踊るシーン。そこで清水が大声で「おかえり」「ただいま」を連呼します。それまでは小さな声でぶつぶつ言っていたわけですが、ここでは思い切って自分を表現します。さらに周囲の生徒たちも同じ表現をしていきます。ここで清水は真の安らぎを感じたのだと思います。大声で「さよなら」を連呼していきます。ひょっとしたら自分の過去の過ちやつらい過去に対して「さよなら」という気持ちになったのかもしれません。教室に戻ってからは「おやすみ」と言います。清水はこの台風の中で、自分の生き方というか、正しい生き方をなんとなく見つけていったように思えます。

4.高見理恵(工藤夕貴)について。
 理恵はなぜ台風が来ることを求めたのでしょうか。現状を吹き飛ばし、全てをひっくり返すような圧倒的なパワーに憧れているのかもしれません。彼女は地元(田舎)にとどまることについて、将来の不安を抱えています。(三上は東京の高校に進学するといいます)また母子家庭ということで、母親の愛情が欲しいという想いを抱いているのかもしれません。彼女もまた強烈なエネルギーの爆発の時期にあります。そして彼女は意味や答を求めていくのです。学校に遅刻し、母親も不在、この無の空間の中で、ふと思い立って東京へ向かいます。母親は、娘が家出した原因を担任や学校に求めているようなのですが、自分自身にも原因があるかも、というふうには考えていません。だからこそ、理恵の心は満たされないのかもしれません。
 寂しかったのかもしれない。知らない人と出会い、誰かと仲良くなりたい。そんな心境だったのかもしれません。理恵は東京で大学生のナンパについていきます。そこに台風がやってきます。凄まじい雨の中、大学生のアパートへと案内されます。そこで理恵は、自分の境遇を話し、自分の思いを吐き出す。そしてふと我に帰るのです。目の前にいるのは赤の他人だ、自分の居場所は地元だ、そんなふうに感じて部屋を飛び出したのだと思います。原宿駅員(佐藤浩市:友情出演)に電車が止まっていると聞き、商店街を彷徨い歩きます。そこでオカリナを吹く奇妙な二人組と出会います。これはどういう意味でしょうか。オカリナは何を象徴しているのでしょうか。おそらく理恵は、泣くという心境を表現したかったのです。しかしオカリナは朝吹くものだと言われてしまいます。すなわちオカリナとは、嬉しい時に、喜びを表現するものであるということなのでしょう。
 激しい雨にうたれて涙を流し、大声で歌っていきます。理恵の心境としては、地元に帰りたい、急に地元が恋しくなった、ということだと思います。他の皆が台風で裸踊りをしているころ、理恵もまた台風の中でずぶ濡れで歌います。警察の人形に寄りかかってしまうほど、寂しいのです。皆が楽しそうに踊っているのとは対照的です。
 台風は土曜日に来ている。しかし理恵が電車を降りて歩き始めるのは月曜日の朝と表記されています。これはどういう意味でしょうか。ここから推察するに、その後再びあの大学生のもとに向かい、土曜日の夜は泊めてもらい、日曜日には東京見物を十分に楽しみ、さらにもう一泊して月曜日の朝に帰ってきた、というふうにとらえるのが妥当です。理恵は大学生に特別な思いはないのですが、誰でもいいから相手をしてほしいと思ったのです。土曜日の夜は何事もなく一夜を過ごし、ひょっとしたら日曜日の夜は求められるがままに一線を越えてしまったのかもしれません。いずれにしても理恵は、大人になったような爽快な姿で地元に戻ってきました。理恵は山田明と会います。理恵は「遅刻よ」と言います。今日は月曜日なのです。この時点で理恵が学校に向かっていたのか、自宅に帰ろうとしていたのかは定かではありません。しかし明がプールへ行くと言うのを聞いて、理恵もまた「私も学校に行こう」と答えたのです。

5.三上恭一(三上祐一)について。
 野球部3年の優等生、三上は、東京の私立高校への進学を希望し、猛勉強を始めています。おそらく寮に下宿していると思われます。夜にタバコをふかして遊びまわっているような面もありますが、哲学的なことを考えるところもあります。冒頭のシーンで溺れていた山田明を救出したのも三上です。おそらくは父親と兄が下宿先に様子を見にやってきたのだと思います。父親は頑固で威圧的、説教好きであることが推察できます。三上が兄に問いかけた言葉です。「個は種を超越できるだろうか?」兄がニワトリの話にしてしまうのですが、この問いは、産まれてセックスをして子どもを産んで死ぬという動物的な循環に対して、個人の人生が超越できるかということを問うています。いわゆる動物とは異なるという意味の人間の尊厳についての問いだと思われます。生きている意味、真面目に生きるということについての答を探しているのです。
 土曜日の朝に、理恵を迎えに行きますが、理恵は出てこず。そのまま学校に向かいます。台風が近づく頃に理恵が家出したと知らされます。三上はトイレにこもって深刻に考えていきます。理恵がおかしくなってしまったと感じている。実のところ思い当たりところがあるのです。ひょっとしたら自分がその原因なのかもしれない。自分が東京の私立高校に進学するのに、理恵をそのままにしている。これでは恋人のことをほったらかしにしている梅宮と同じではないか。
 台風の中、取り残された学校から梅宮に電話をします。そして梅宮を批判します。「悪い人じゃないけど、もう終わりだと思います。僕はあなたを認めません。一方的すぎるかもしれないけど。」梅宮に対する電話は、どういう意味でしょうか。三上の先の会話から推察するに、彼は種の保存ではなく、個人としての尊厳を考えているのだと思います。特別な存在としての人格です。惰性で流されるのではなく、自分の意志(理性)を強く持つということです。中学生は何のために生きるのかということを真剣に考える頃です。無意味な人生は嫌なのです。三上からすれば梅宮の生き方は、深い意味や目的はなく、ただ惰性でやっているというふうに見えるのです。自分の意志を貫くべきではないか。そう彼は主張しているのです。
 そんな三上に対して梅宮は言い放ちます。「お前は15年もすれば俺になるんだよ、あと15年の命なんだよ」梅宮からすれば、中学生が考えることくらいは全部分かっているのです。しかも自分の中学生の頃と似ているので、いっそう共感できるのです。しかし共感できるからといって「素晴らしい」とはなりません。過去の自分は、嫌いなのです。
 電話を切った後で、三上はますます落ち込んでしまいます。梅宮の言葉がけっこう心にずしりと刺さっているようです。自分は、ひょっとしたら梅宮みたいになるのではないか。確かに思い当たる節があります。自分が理恵にまともに相手にしなかったがゆえに、理恵は家出をしてしまった。クラスの様子も、台風の中で裸踊りをしてしまう様子も、なんだかみんなおかしくなっている。教室のいじめや暴力も気になる。そんな思いがどんどん大きくなってきます。清水が健全な精神を獲得していくのとは逆に、三上はいっそう迷ってしまうのです。
 三上は徹夜で考え込んでしまいます。そして「死は生に先行するんだ。…俺達には厳粛に生きるための厳粛な死が与えられていない。だから俺が死んで見せてやる。みんなが生きるために」といってダイブします。2階なのか3階なのか定かではありません。重要な問題は、彼がどの程度、本気で死を考えていたかという点なのです。確かに狂乱的に騒ぎ、はしゃぎ、遊んでいる中学生の状況を見て、そこには厳粛は形の生は見えてきません。そんな中学生の現状に対して、死を見せてあげたいというのは、理屈としては分からないわけではありません。「死ぬのが怖い」という感覚があって初めて真面目に普通に生きることができるからです。彼は理性の力というものを形として見せようとしたのです。しかしそうした理由があってもなお、彼が自殺を決意するとは考えにくい。決して彼は絶望的なのではないからです。彼は意味のある人生を送りたいと切望しているのです。私の推察ですが、教室の窓から下を見た際に、あそこは水たまりのような状態であるから、あそこに飛び込めばうまく「死という演出」が可能になる。そんなふうに思ったのだと思う。死のダイブは、そういう演技であって、それを見せようという思いだったのでしょう。
 しかし実際に飛び込んでみたところ、以外にも奥深くに入り込んでしまい、自力で抜け出すことは出来なくなった。足が少し動いています。今、すぐに救出すれば助かるでしょう。しかし周囲は驚いてしまい、足が立ちすくんでしまっている。シーンはここまでです。これは私の推察なのですが、おそらくその後、清水が急いで救出し、三上は助かったのだと思います。もし救出に成功していれば本作はハッピーエンドであるし、救出できなければ本作はバッドエンドになります。勿論その解釈は私たちに委ねられています。清水の過ちを皆が許した、ということを思い返すならば、ここで三上を人工呼吸により救ったと考えるのが自然です。清水はこの時点では真面目さを取り戻していると思うのです。
 ラストは明と理恵が中学校に向かうシーンで終わります。台風は土曜日の夜にやってきて、飛び降りたのは日曜日の朝、そして二人が学校に向かうのは月曜日です。明の様子からすれば、月曜日が臨時休校となった理由が推察できます。学校が水浸しで使えないとか、田畑が大変になった家庭への配慮によるものであって、三上が自殺して大騒ぎになったからではありません。ラストに流れる爽やかなBGM、エンドロール中の運動会の声、そこまで含めて考えるならば、やはりラストは三上が救出され、みんなで明るい日々を取り戻したのだと言えます。ハッピーエンドだと思います。本作は何を描いていたのか。台風によって、過去の過ちや迷いが吹き飛んでいき、昨日よりも少しだけ大人になっていく。思春期の空気感というよりは、その中での生徒たちの「成長」だと思うのです。
 本作のラストが分かりにくいということで、不満を持つ人も多いようなのですが、映画を見終わった後に、じっくり考えていき、場面を思い出し、いくつかの解釈を導き出していく、それはとても大切な意味ある時間だと思います。私たちは日常生活においても、現象の全てを理解するわけではありません。断片的な場面をつなぎ合わせてその意味を作り上げていくのです。映画を見る側には、映画を解釈したり、意味をよみとったりする自由が必要です。そういう楽しみを与えてくれているという点で、本映画は素晴らしい映画だと思います。

(1985年東宝、相米慎二監督)
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Posted on 2016/08/26 Fri. 22:12 [edit]

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