『わたしのせいじゃない』感想  

(作:レイフ・クリスチャンソン、絵:ディック・ステンベリ、訳:にもんじまさあき、岩崎書店、1996年)一人の子が泣いている。周囲の子たち全てが「自分のせいじゃない」と答える。一人ひとりが少しだけ加担すれば、あるいは無視すれば、それが大きな力となって彼を苦しめる。本書は、無関心の恐ろしさを伝えている。一人ひとりが優しさを持てば世界は変わるだろう。本書は「責任」の本質についても問いかける。責任は事後的に個人に課せられるが、現象は集団的に発生する。責任を問うても根本的な解決にはならない。特に後半で描かれる貧困や戦争などは、いっそう明らかだ。誰にも責任がなくても、集団規模で起こってしまう。集団や国家の恐ろしさだ。
 一人の子どもが泣いています。いじめられていたのだと思います。そしてこの絵本は、おそらく、先生がやってきて「どうして泣いているの?」と周囲の子どもに質問している場面でしょう。一人の子は「わたしのせいじゃないわ」と言います。別の子は「見ていないから知らない」別の子は「僕は何も出来なかった。見ているだけだった」別の子は「おおぜいでやってたのよ。わたしのせいじゃないわ」別の子は「ぼくもたたいた、でもほんの少しだよ」別の子は「はじめたのはわたしじゃない」別の子は「その子がかわっているんだ」別の子は「泣いている男の子なんて最低よ」
「わたしのせいじゃない?」その後に、貧困や戦争、環境破壊や交通事故などの写真が登場します。前半の素朴なかわいらしい絵と比較するため、とても痛烈でショッキングな写真です。
 前半の話は、学級の内部で起こっている「いじめ」についてです。いじめとは、一人の暴力的な人間が、一人のひ弱な人間に暴力をふるうというような簡単なメカニズムではありません。勿論最初は、一人のちょっと乱暴な子の暴言なのです。「あいつって変だよな」「あいつは、なんだか変だ!」そしてそれに周囲がどんどん同調していきます。あっという間に、集団の大きな力となってしまうのです。そして一人ひとりは小さな暴力かもしれませんが、気がつけば大きな暴力がその子に向けられてしまうのです。その動きはまるで、一つの巨大な生き物が登場しているかのようなのです。今度は「あの子が悪い」という理由付けをした上で暴力をふるったり、「抵抗しないあいつが悪い」という、さらに彼を追い詰めるような言葉を吐いたりするのです。要するに、集団の力に抗することが出来ないのです。「いや、俺はそうは思わないな」とは言えない。「そうだ、そうだ」と追従することしかできないのです。こんな場面において、誰の責任を問えば良いのでしょうか?何もしなくて黙って見ていたことや、全く気がつかなかったことも、集団の力をそのまま増幅させたという意味では加担したことになるのかもしれません。責任とは何でしょうか?この絵本は、私たちに問いを投げかけています。後半の話は、いじめの問題を受けて、世界中で起こっている全てのことに「責任がない」と言って済ますことができるのか?と問いかけてきます。私という人間が直接的に手を出して何かをしたわけではないので、その意味では責任がないのです。しかし、私たちは、世界の貧困、貧富の差、戦争、急速な都市化や工業化、その他、様々なことが、悪い方向に向かっていると漠然と知りながら、そこから目をそむけ、自分のことだけに関心を持ちます。そしてその外側のことは「関係ない」と切り離して考えます。誰かが泣いていても、誰かが傷ついていても、分からないのです。非常に短い絵本でありながら、物事の本質を鋭く描き出す、素晴らしい絵本だと思います。スウェーデンのベストセラー絵本です。
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Posted on 2012/01/05 Thu. 22:29 [edit]

category:   4) 多様性を包含

thread: 絵本 - janre: 本・雑誌

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