『どんなにきみがすきだがあててごらん』感想  

(作:サム・マクブラットニィ、絵:アニタ・ジェラーム、訳:小川仁央、評論社、1995年)スキという気持ちだけが誇張される。なぜそう思ったのか、どの場面でそう思ったのか、誰が誰に対して思ったのかさえ不明。親子か、男女か。共感するための材料がない。スキとスキ以外の感情が複雑に絡み合ってこそ豊かさが生まれるのに、スキスキ言っている。そもそも「あてる」意味が分からない。表現方法は一方的で、深みの味わいもない。これで相手は喜ぶのか?読者は、ウサギという不完全な存在が全身全霊でスキスキ言っている姿にキュンとなる。自分がそう言って欲しいだけではないか?こんなことを子どもに求めてはいけない。
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 大きなウサギと小さなウサギが、楽しそうに遊んでいます。小さなウサギは、大きなウサギに質問します。「どんなに、きみがすきだか、あててごらん」デカウサギは「そんなこと、わからないよ」と答えます。チビウサギは腕を広げてこれくらいと言います。デカウサギは、ぼくは、これくらいすきだよと言います。デカウサギですから、彼が腕を広げるともっと大きくなります。チビウサギはよく考えました。背伸びをして示したり、跳んだり、はねたり。しかしどのように大きいことを表現しても、デカウサギがおんなじことをすれば、デカウサギの方が大きくなります。そこでチビウサギは自分の身体を使って表現することを諦めます。そして「このみちをずっといって、かわにとどくくらい、すきだよ」と言います。するとデカウサギは「ぼくは、かわをわたっておかをこえたくらい、すきだよ」と言います。チビウサギは眠い目をこすりながら、「ぼく、おつきさまにとどくくらい きみがすき」と言います。デカウサギは、「それは、とおくだ」と言う。それ以上に遠くの世界を、思いつきません。チビウサギが眠くなって、ついに眠ってしまう。するとデカウサギはそこにキスをして、「ぼくは、おつきさままでいって、かえるくらい、すきだよ」と言います。
 さて、とても人気がある絵本です。どのレビューを見ても絶賛です。で、ごんたろうは、やはりイマイチなのです。この絵本は大きく分けて二つのテーマがあります。一つはスケールということ、そして一つは愛情表現ということです。多くの読者は愛情表現という点について感激し、トキメキ、高く評価していると思われます。ここで示されている愛情表現は、誰と誰の愛情表現でしょうか。親子の愛でしょうか。曲がっていたり、歪んでいたり、迷走するような子どもに対して、どっしりとした愛で包み込むようなものこそ、親子の愛です。ここで描かれているのは身長や若干の人格的な面においてスケールの違いはありますが、基本的には対等な会話です。 
ここで描かれているのが親子の愛だとすれば、どうもしっくりきません。男女の愛でしょうか。ここでは男らしさも、女らしさも、勿論相手の魅力も、文脈も、それぞれの生活や人生も、殆ど描かれていません。一緒に遊んでいるシーンはさらりと描かれているわけですが、本当はここでいろいろなトラブルや葛藤があるはずです。男女の愛とも、思えません。同性愛?友情?兄弟?いろいろと推察するのですが、決定的ではありません。この作者は、読者がいかなる対象を持ってきてもいいように、意図的に曖昧なままにしているのかもしれません。そのことが、最も大きな論点だと思うのです。わたしたちは、好き、嫌い、愛情や感情については、誰が誰に対して向けるかによって全く変わってきます。親子の愛であっても、どういう子どもなのか、どういう親なのかによって変わってきます。その多様性やそれぞれの課題や葛藤こそが、大切なのです。それを捨象して、スキスキスキスキと言っている姿は、とても奇妙です。気持ちが伝わらないとか、気持ちがうまくかみあわないとか、まさにそのような場面において、本当の愛が浮かび上がると思うのです。例えば兄弟というテーマで、兄弟を描く。するとその中に、好きな部分、憧れの部分、そして嫌いな部分や、怒りや悲しみが含まれてきます。混在しているのです!だからこそその微妙な感情に、読者は感動するのです。
 本書はそういう形ではなく、スキスキスキスキ、言っている。とても奇異なのです。この絵本の「好き」の部分を、「嫌い」に切り替えたらどうでしょうか。とたんにその空虚感が浮かび上がると思います。この絵本が描いている場面、「ぼくがあなたをどれくらい好きであるかということを、あたなにあててほしい」この問いかけそのものは、ごんたろうには、どうでもいいような問いです。そんなことをきいてどうするのでしょうか?そういう場面が、ありますか?この問いには、答えたくありません。チビウサギは、自分が相手を好きであるならば、そういえばよいのです。なぜ、この気持ちの量を、相手に当ててもらうとするのでしょうか。理解できません。勿論、デカウサギも、あまり乗り気ではなかったのです。ところがそれを無視して、チビウサギは勝手に自分の気持ちを表現していきます。そこに、リアリティは感じられません。アニメ風の美少女がよってきて、涙をいっぱい溜めて、「もおっ!バカっ わたしがこんなにあなたを愛しているのに、 なんで分かってくれないのお、ばか、ばか」なんて言っているようです。
 これは妄想です。これを理想にしている人というのは、「自分が相手を好きであるのに、自分から言うのは精神的にきついので、向こうから言ってきて欲しい」という自己満足的な勝手な妄想を描いている人です。受身です。読者は何を求めているのでしょうか?おそらくは、みんなスキスキ言われたい、あるいはスキスキ言ってみたい。そうやってドキドキした気持ちに浸りたい。そういう感情を抱えていると思う。一般的に私たちがその気持ちをストレートに表現しないのは、理由があって、 失恋が怖い、 勉強や仕事が忙しい、 自分に自信がない、 自分の立場が失われてしまう、いろんな理由がある。社会生活にどっぷり浸かってしまえば、恋愛は忘れてしまう。そういう面があるでしょう。それゆえ本書のようなスキスキ物語を見れば、キュンとなってしまう。極端な言い方かもしれませんが、欲望を充足するような絵本なのです。美少女アニメキャラが平凡な男の子によってきてスキスキ言っているような、そんな絵本なのです。
 現実の複雑な葛藤を生きるのではなく、その葛藤を避け、抽象的なイメージの中へ逃避しているのです。その意味で、本書のような絵本は、とても気持ちが悪い。もう一つのテーマ、それはスケールということです。ゾウとネズミは同じ時間を生きているのか?(『ゾウの時間 ネズミの時間』)といったことをテーマにした書もありました。チビウサギによっての最大は、デカウサギにとっては最大ではありません。それはたんに身長だけの問題ではなく、認識においても言えます。チビウサギが思い描く最大の距離は、もう少し理解力の高いデカウサギによっては最大ではありません。最も遠い距離と思われていたお月様に関しても、デカウサギは、「そこから帰ってくる」という点を知っているわけですから、最大ではありません。そして昼から夜にかけて、じっくり活動したとしても、眠くなる時間は、チビウサギの方が先にきます。デカウサギはもうすこし先まで起きています。
 ふと思い出すのは、兄弟げんかのような場面で、自慢合戦をした時に、兄は少しだけ理解が進んでいるので、どんな議論をしても常に兄が勝ちます。そのことを考えていけば、この絵本が描いているスケールというテーマは、とても興味深いものであって、そちらに着目すると面白いと思います。この絵本の中では小さなウサギと大きなうさぎの差でしたが、一日の時間が、二人の間で異なっているということは・・・すなわち、それは、死ぬ時も異なるということです。デカウサギの方が、先に死ぬ。それが、この絵本の中で暗示されているようです。ここまで考えた時、この絵本の重みが少しだけ伝わってくるような気がします。
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Posted on 2014/11/01 Sat. 21:21 [edit]

category:   5) 恋愛とは何か

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