映画『マルホランド・ドライブ』感想  

 細かな設定について説明がないので、いきなり観た人はビックリします。混乱に混乱を極めます。仕組みさえ分かっていれば、この映画は、素直に見ることが出来ます。まず、この映画の仕組みについてです。ネタバレになります。あちこちで言われていることですが、この映画の前半は、主人公ダイアン(ナオミ・ワッツ)の睡眠中の夢、そして後半はダイアンの過去の回想となっています。どちらもダイアンの意識を経由していますから、断片的ですし、ファンタジックでもあります。
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 ダイアン(ナオミ・ワッツ)は、女優になることを夢見て、田舎からハリウッドにやってきたが、うまくいかず、カミーラ(ローラ・ハリング)と、レズビアンの関係になってしまいます。心の底から彼女を愛してしまいます。しかしカミーラは、アダム・ケッシャー監督と男女の関係となってしまい、ダイアンとの関係を断ち切ろうとします。ダイアンは自らの思いが伝わらず、遂に暗殺者に頼んでカミーラの殺害を試みるのです。勿論カミーラが嫌いになったのではなく、愛しているがゆえの暴走。ストーカー?ですから殺害を依頼した後も、ひょっとしたら殺害に失敗し、カミーラは生きているのでは?等という希望を抱くのでした。こんな状態で「夢」を見るのです。
 映画の前半で描かれるのはその「夢の世界」です。後半の現実の中で見かけた人物が、前半の夢の中に登場します。前半は夢です。彼女の理想が描かれます。女優になるべくハリウッドにやってきた。希望に満ちて、明るく、幸せそうに描かれています。
 以下は、私の解釈です。ここに登場するカウボーイは、死神。ダイアンが自殺することを知る死神カウボーイが、最後にダイアンに温かな世界を体験させ、静かなひと時を与えようとした。そんな時間だと思います。ダイアンの理想の自分、それは現在のダイアンのような生き方ではない。別の人生を歩む姿です。ですから「ダイアンでない誰か」になる必要があります。それゆえここでは、ダイアンはベティとなって登場します。カミーラも、そのまま登場すれば悲しくなってしまうので、ここでは、記憶喪失の女性リタとして登場します。ダイアンはカミーラとこんなふうに出会い、ゆっくり愛をはぐくんでいきたい。そんな願望を抱いているのでしょう。脅え困惑するカミーラを助けてあげる。…こんな気持ち良いことはありません。この夢の中では、ダイアンとカミーラはぴったり重なり合う。アダム・ケッシャー監督が、指示に従わずに逃亡し、文無しになります。ここでカウボーイの登場です。カウボーイは、ケッシャー監督が降りてしまえばオーディションが開催されない、このままではダイアンの夢が成立しないと思い、監督の前に現れたのでしょう。夢の世界の中の配役です。
 全てはカウボーイがコントロールする世界です。ケッシャー監督は、ここでは確固たる意志をもたず態度だけが動いているような存在だ。カウボーイはケッシャー監督に対して、仕事に復帰し、オーディションを行うよう促す。こうしてオーディションは開催され、ダイアン(改めベティ)は、女優への階段を昇り始める。ダイアンは、ケッシャー監督とも出会うことになる。一目惚れを予感させる出会いです。さて、ダイアン(改めベティ)は、カミーラ(改めリタ)の記憶をたどり、 17号室で腐乱死体を発見します。この死体は誰かということが議論になります。私の解釈です。これは生きる気力を失ったダイアン、現実のダイアンの姿だと思います。今まさに夢の中で生きている。ということは、現実では魂が抜けた殻のような状態です。まだ死んでいるわけではありません。(魂は、こっちのベティの方に移っているわけですから)理想の夢物語にどっぷりつかっているダイアンは、現実の自分自身の姿がこのように見える。自分と殻が完全な別の存在になってしまっている。そんな姿だと思います。カミーラは深く落ち込んでしまい、(それがダイアンの願望か)カミーラは、ダイアンと同じヘアスタイルに変えます。(それがダイアンの願望か)かくしてこの夢の世界で、ダイアンとカミーラは心身ともに結ばれるのです。(けっこう!ドキドキしてしまうエロシーンでした!!!!)
 夜中に突然カミーラ(改めリタ)は、スペイン語で「お静かに」と叫んでしまいます。お静かに(スペイン語)という名前のクラブへ行き、そこで奇妙なステージを見ます。「お静かに」には二つの意味があると思う。一つは、華やかなハリウッドの映画界を、静かにさせるということ。ハリウッド女優になるという夢はもう諦めようということ。一つは、カウボーイの作り上げた理想の世界を停止させ、ナオミ・ワッツの悲しい気持ちをじっくり聞きましょう、ということ。
 楽団の演奏は、全て録音され計画されたもの。すなわち、ここまでの世界が、カウボーイが作り上げたものだということ。カウボーイは、まもなく死がやってくるダイアンに対して、おもいっきり満足できるような夢の世界へ招待しようとした。しかしながらダイアンは「女優という夢が挫折したということ」「カミーラと結ばれなかったということ」この二つの悲しみに襲われる、あるいは悲しみに浸っていたい、この自分の悲しい気持ちを伝えたい、というふうに思う。カウボーイの提供する世界の中で、ダイアンの素直な感情が噴き出ている。それがこのステージなのだと思います。ステージでアカペラで歌われるその曲は、現実のダイアンの心境そのものでした。それを見ている二人にも涙があふれます。時間です。夢は終わります。
 カウボーイがドアをたたく。「よい、彼女、起きる時間だ」さて、現実です。青い鍵が届きます。殺害は成功したのです。もう、後もどりは出来ません。警察にもばれてしまうかもしれません。遂に意識が崩壊してしまいます!老夫婦は、映画やテレビを見る視聴者といったところでしょうか。(何も知らずに笑っているだけ)混乱した中で、ダイアンは自殺します。映画はここまでです。言葉一つ一つ、映像一つ一つに意味が込められていて、全てを理解するのは容易ではありません。
 このような不完全なシーンであるからこそ、説明が一切省かれているからこそ、私たちはこの映画を観終わった後で、あーでもない、こーでもないと考えることが出来ます。中には、わざと難しくする意味はあるのか?といった疑問もあるようです。映画は娯楽であるのだから、分かりやすさも必要だ。難しくするのは、知的ぶっているからか?そんな声もきこえてきそうです。私は、こういう表現方法として評価したいと思います。永遠に意味が分からないというのは、可哀そうな気もしますが、映画の仕組みや設定が分かるのは最後でいいと思う。人間の感情、欲望、願望。人間らしさの本質的部分をいかにして表現するか。客観的な事実だけを時系列的に並べるよりも、いったん主人公の精神世界の中にどっぷりつかってみる方が、よく伝わる。主人公と一緒に混乱してしまうとダメです。「現実でこんな悲しいことがあって、それを深層心理に抑え込みながら夢を見るとこんなふうになる」という正常な認識は持っておくべきです。私たちは一方で正常な理解を得ながら、人間の錯綜した精神に共感することが出来ます。この映画はそれをうまく表現していると思います。とても暗い映画です。
 私は、暗いだけの映画は、嫌いですが、この『マルホランド・ドライブ』は、違います。基本的には謎解きなのです。錯綜した主人公の精神状態の中に入っていき、現実でどんな悲しいことがあったのかと推察する。何度か見なおした時にわかると思うのです。前半のとても明るく幸せそうな場面によって、主人公の深い悲しみが伝わる。幸せによって不幸を表現する。表現方法としてとても素晴らしいと思うのです。またこの映画の良さは、そこにエロの要素が入ってくるという点です。美しい女性がベタベタしている姿というのは、男性であればたまりません!(笑)ナオミ・ワッツの前半と後半のあまりにもの違いは、とても印象的です。男はこんなに変化しません。単純だから。(笑)笑顔の女性も素敵ですが、悲しみのどん底にいる女性もまた、ある意味で美しい。苦しんでいるのが楽しいということではありません。悲しそうな表情の女性を見るとキュンとなる。助けてあげたくなる。男性の素直な感情です。この映画を女性が見るとどう思うのでしょうね。私は、男性の欲望を引っ張り出すようなそんな映画に思えます。(2002年、アメリカ公開映画、監督デビッド・リンチ)
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Posted on 2014/10/12 Sun. 15:48 [edit]

category: 映画

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