『ないた』感想  

(作:中川ひろたか、絵:長新太、金の星社、2004年)人は様々な場面で涙を流す。それらを分類したり整理したりすることも可能だが、「泣くこと」に共通する仕組みは何か。自分という入れ物を激しく揺さぶられた時に泣く。ということは、涙を流す瞬間とは、自分自身が大きくなったり、成長したりするチャンスだと言えるのではないか。そんなことを考えさせてくれる絵本。
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 表紙では男の子が泣いています。男の子は泣いていますが、猫が寄ってきています。長新太らしい、黄色と橙色を中心とした力強く素朴な表現です。本当に小学生が描いたとさえ思えるような素朴さ。子どもの気持ちがそのまま描かれているかのようです。
 主人公の男の子は、泣いた場面を思い出していく。転んで泣く、叱られて泣く、悔しくて泣く、等。迷子になった時に涙を流すが、親のもとに戻れて嬉しくて泣く。悲しくて泣くというのは、泣く行為の全てを説明していません。私たちは嬉しくても泣くのです。マイナスでもプラスでも、同じ泣くという行為をする。
 人間は、なぜ泣くのでしょうか? 絵本から少し離れて、一つの仮説を立ててみましょう。私たちの心の中にコップがある。感情をため込むためのコップです。私たちは毎日一定量の感情の変化をコップに入れては、その感情を後でこっそり捨てている。そんなイメージです。心が激しく揺さぶられたならば、中の水は外部に飛び散りますし、ときおり、何の意味もなく、水だけが増えていって外にこぼれることもあります。涙をうんと流してみると、スッキリします。「自分」というコップと、「感情」という水とのバランスの問題だと思うのです。子どもはちょっと転んだだけで泣きます。自分というコップが小さいからです。自分の存在が大きく揺さぶられるからです。助けてー、わあああああっという感覚。とにかくパニックに陥ってしまい、収拾がつきません。大人から見れば、「泣くほどの問題ではないのに」「そんなに泣けば疲れるだろうに」と思います。「泣いたところで痛みが減るわけでもないし、状況が変わるわけでもない」「ちょっとしたくらいのことでメソメソ泣きやがって」大人は素直にそう思います。大人は、転んだくらいで泣きません。自分というコップが大きくなったからです。この絵本で扱われている前半部分は、まさしく子どもの存在を描いています。子どもは、自分という身体が崩壊してしまうのではないかと想像したり、このまま死んでしまうのではないかというくらい絶望を感じたり、今までの人生の幸せが、今後は一切失われるのではないかと不安になったりして、涙を流します。またその心配や絶望が、消え去り、あたたかく包み込まれた時に涙を流します。涙を流す瞬間とは、ある意味で自分というコップが壊れそうになる瞬間であり、また逆に言えば自分というコップを立て直して大きくなったり成長したりするチャンスでもあるわけです。
 絵本に戻りましょう。「こわくて、ないた」 この頁では、暗い草原の中を一人でポツンと走っている姿が描かれています。自分という存在が、巨大な暗闇に飲み込まれそうになると、どうしようもないほどに不安に陥ってしまいます。孤独のどん底で人は、自分というコップが消えてなくなるような感覚を得るのだと思います。
 お母さんが病院へ向かう。出産が近いのです。そんな時、主人公の男の子は泣いてしまいます。赤ちゃんが生まれ、久しぶりに母親と会うと、また涙が出ます。ペットの犬が死んだ時にも涙を流します。身近な人、大切な存在が命を落とすこと、遥か彼方に行ってしまうこと、その不安の中にあって再会できること。いずれも深く心を揺さぶられる出来事です。私たちは死を前にして何も出来ません。生まれて死ぬという厳然たる事実は、私たちの個々の出来事を超越した大きな出来事です。涙をためるコップは、あっという間にいっぱいになっていきます。それは、大人でも同じことです。
 「カラスが ないた。 でも、あれは ないていない。あ、ないているのかもしれない。おかあさんが びょうきで ないているのかもしれない。」「せんそうで、いえを やかれて ないている こどもを、テレビで みた。」
 主人公の少年は、カラスの姿をみていろいろと思索を巡らしたり、テレビを見ては地球の裏側のことにも関心を持ったりしています。もはや自分自身の問題にはこだわっていないのが分かります。相手が悲しい思いをしている。それをあたかも自分自身のことであるかのようにとらえる力、共感という大切な能力を少しずつ習得しているのです。この少年は、成長しているのです。
 お父さんは泣かない。お母さんもまた、包丁で指を切ったくらいでは泣きません。「でも、おかあさんの おふとんに はいったとき、おかあさんの めから なみだが でた。」「つーっと、まくらに ながれて おちた」。このシーンは、青色で暗い雰囲気で描かれています。母親の顔は描かれていません。「ないてるのって きいたら 『ううん』って、いった」このシーンは、橙色で明るい雰囲気で描かれています。母親は笑っています。ここで母親が涙を流したのはなぜでしょうか?文章には書かれていません。この箇所は読者が自由に推察してよい箇所です。私は次のように推察します。布団の中で子どもが問いかけたのです。子「おかあさんはなんで泣かないの?」母「泣く時だってあるわよ」子「泣きたい時、あるの? 今は我慢しているの? 本当は泣きたいの?」母「ありがとうね」こんな会話があったのだと思います。母親は、この子の言葉の純粋さとあたたかさに感動して、涙を流したのではないかと推察します。悲しい涙ではありません。いつの間に、この子はこんなに大きくなったのだろう?いつの間に、この子はこんなに優しくなったのだろう?そんな感動だと思うのです。絵本の流れはあくまで主人公の男の子の目線で描かれているのですが、そこには子どもと母親とのあたたかいやりとりが含まれている。読者はそこを想像して、その全体を掴み取ることができる。そんな場面だと思います。
 最後の頁です。「ぼくも おとなになったら なかなくなるんだろうか。」という問いです。自分の身体が大きく描かれていて、そのちょうど胸のあたりに、自分の顔がある。これは何を意味しているのでしょうか?私の推察ですが、ここでは二つの自分の葛藤を描いているのだと思います。一つはすぐに泣いてしまう自分、子どもで、不安を感じてしまう素直な自分、生身の身体としての自分です。もう一つは、世界を見つめる鋭い力を持った「意志」、なぜ泣くのか、どんな時に泣くのかについて冷静に考えようとする自分です。
 大人になればなるほど、ちょっとしたことでは泣かなくなります。感情を溜めるコップが大きくなるのです。しかしそれでもなお、大きな揺さぶりがくれば、涙は流れます。むしろ、思い出して泣いたり、考えて泣いたり、涙もろくなるかもしれません。1+1が2であるということでは泣きませんが、1+1が100になったり、マイナスになったりすると、涙を流します。予想をはるかに超える出来事に遭遇したり、納得できないことを体験したりすると、自然と涙は出てくるのです。そう思うと、子どもが涙を流すのも、大人が涙を流すのも、同じかもしれません。真面目に生きていて涙を流すのは、とても素晴らしいことです。涙を流すのはカッコ悪いというのは、明らかな間違いです。ここまで考えてみて再び本書の最後の頁を見てみます。ここで示されているのは「大人になれば泣かなくなるのか」という単純な疑問であると同時に、あるいはそれ以上に、「自分は大人になっても涙を流せるような立派な人間になれるか」という問いではないかと思えてくるのです。
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Posted on 2014/03/02 Sun. 23:44 [edit]

category:   3) 人間の素直な感情

thread: 絵本 - janre: 本・雑誌

tb: 0   cm: 2

コメント

No title

はじめまして!!

私もよく泣きます。

ちょうさんのこの絵本、図書館で探してみます。

楽しみだなあ。

URL | ハッピーモモ #-
2014/04/20 08:59 | edit

コメントありがとうございます。

ハッピーモモさま。コメントありがとうございます。今後も宜しくお願いします。

URL | ごんたろう #-
2014/04/27 21:29 | edit

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