テレビドラマ『女王の教室』感想(その2)  


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1.
阿久津先生がなぜこのような鬼教師になったかということがエピソード1、エピソード2という特番で描かれていきます。子どもの問題(教師批判、いじめ、自殺未遂、差別、暴力)保護者の問題(教師批判、甘やかし、クレーマー)学校の問題(事なかれ主義、保護者をお客様扱い)それらがいっきに押し寄せ、夢と希望にあふれていた阿久津先生が、しだいに悪魔のように変貌していく姿が描かれています。

 失敗をもとにして反省してからやり直しをする。それがよく描かれています。エピソード1、2を見ていると、阿久津真矢先生の指導方針が明確になってくると思います。以下、阿久津先生のいくつかの論点ごとに整理してみます。

2.「後手ではなく先手」
 阿久津先生が悪魔になる前、この時、阿久津先生は子どもに手をあげてしまいます。子どもが悪い?そうではありません。…やはり先生が悪いのです。先生の問題点は、「体罰をしなければならない状況になるまで放置していた」ことです。「気がついた時にはいじめが深刻な状況になっていた」ということ、「そんな状況になっていると気付かなかった」ということが問題なのです。子どもが問題を起こしてから対応するというのでは「遅い」のです。その時にはもはや修復不可能な段階に来ているのです。後手後手にまわったということが、全ての失敗の原因なのです。それゆえ阿久津先生は子どもが行動を起こすよりも前に、子どもたちにインパクトを与えるようにしました。子どもたちがビックリし、どうしようと困惑し、頭をかかえて試行錯誤を始めていきます。また、始業時までに子どものことを徹底的に調べ上げておき、あらゆるトラブルを事前に予測できるようにしました。子どもがトラブルを起こしてから教師が頭をかかえて悩むというのでは、「遅い」のです。最も怖いのは、教師の言葉が子どもたちに届かなくなること。教師がコントロールできなくなるということです。教師があれこれと事件の中心であれば、全ては教師を起点にして進めることができます。また、子どもから「先生、○○をして下さい」保護者から「先生、もっと厳しくして下さい」等と言われて、それから方針を改めるということは、決してよいことではありません。教師という立場の権威を著しく失墜させることになります。批判させるような部分を見せないことも大切です。

3.「子どもを否定すること」
教師は目の前の子どもたちを見て、「あ~あ、こんなんじゃダメだ、ホント、お子ちゃまか?」といった落胆的なまなざし(イライラしたメンタリティ)を持つことも必要です。常に不機嫌でいることが大切です。特に新任の教師は、クラスの子どもの平均像というものを位置づけた上で、出来る子を褒め、おりこうさんを褒め、出来ない子を注意し、問題児を叱責しようとします。自分が喜んでいるか、悲しんでいるかを表現しようとします。それで子どもがついてきてくれることを期待するのです。しかしそれは、おそらくは間違いです。成績に序列があるということ自体は、おそらく仕方ないことですし、子どもたちもそれが分からないわけではありません。しかしいっそう残酷なのは、「先生を幸せにする子」と「先生を不幸にする子」との格差が存在するということです。愛情の序列です。この格差は、クラスの協力関係にとってはマイナスです。阿久津先生は、全員に対して冷たく、全員に対して課題を与えていきます。ベテランの教師もまた、阿久津先生と同じように、愛情に差をつけるようなことはしません。喜ぶ時にはクラス全員に対して喜び、怒る時にはクラス全員に対して怒る。また、最初から「君は素晴らしいね」と言ってしまえば、主導権を子どもが握ってしまいます。100%の目標に到達するまでは、認めてはならない。少しくらいまともなことを言っただけで、「あなたの言っていることは素晴らしい」等といってはいけない。最初の頃、「進藤ひかる」が成績で雑用係を決めるのはおかしいと言いましたが、阿久津先生は「私にたてつくことは許されない」と一蹴します。雑用係についてクラス全員が一致し、納得し、自分たちで割り振りを決めるところまでいって、初めて完成なのです。阿久津先生は、最後まで「イライラしたメンタリティ」を示し続けていました。指導するということは、イライラしたメンタリティを持っているということです。ニコニコ笑って満足するということは、もう指導が必要ないということを示すことになってしまうのです。

4.「短期間で結果を出すこと」
教育活動というのは、とにかく結果が見えにくい。教師は、毎日子どもを見ているわけですから、変化を感じることができますが、その変化は、他の人からは全く見えない。そんなものです。ですから、誰の目から見ても明らかであるような「結果」を出すことが大切です。教師は、よーく子どものことを考えていくと、子どもの本当の姿が見えてくると、学校や教育委員会や保護者といった外野の人々が、あまり子どものことを理解していないということに気づいてきます。(一定の枠の中に子どもをはめ込んで満足するという存在だったりします。)しかしながら、教育委員会や保護者を批判しても意味がありません。子どもに一番近いところに立ち、子どもを変化させることができるのは、担任教師だけです。指示を出して子どもを動かし、短期間で成果を出すことです。それによって学校や保護者はその担任教師を信用するのです。阿久津先生はそれをやろうとしていたのです。保護者も他の先生方も、阿久津先生のクラスが良くなったという結果を見れば、途中経過がどのようなものであっても、さして気にしません。逆に言えば、教師がどんなに頑張っていても子どもたちが変化しなければ、保護者や学校は信用しなくなるのです。最も簡単に変化できる部分、それは学業成績です。
 また、阿久津先生は、教員同士の相互の連携や協力、支え合いを拒否していきます。全校集会や学年会議にも全く価値を置いていませんでした。そもそも、教員の連携が必要なのは、情報を交換し、教育の質を上げるためです。もし自分の手元に情報が十分にあり、教育の質が高いのであれば、教員同士の連携は、それほど必要ではない。教員も人間ですから完璧ではない、という理由で連携をするようなものです。学校現場の先生方の多くは「学級王国」を作ってしまいます。現在はそれは間違ったことだとされる傾向にありますが、完璧な教師になればなるほど、「学級王国」に近づいていくのだと思います。

5.「教師の人間的な部分をそぎ落とすこと」
教師が人間的な部分(ダメな部分)を出してしまうことは、マイナスです。子どもはそれを見て、それに合わせて言動を起こすからです。例えば、若い女性教員といえば、「先生カレ氏いるのお~?」「結婚するのお?」という具合で、足元を見てしまう。教師が「時間を守りなさい」と指示を出せば、子どもは「だって~、先生だってこの前、遅刻したじゃん」と返してしまう。それゆえ、適格な指示だけを出すためには、教師の人間的な部分を出来るだけそぎ落とす必要があるのです。そこから真っ黒な服装とピンとした背筋。低い声、鋭い目つき等になっていくのです。弱みや隙を見せない方がいい。当然、教師は時間を守り、節度ある言動をとらなければならない。一般的に、教師の人間性が子どもにプラスの影響を与えると思われがちです。しかしプラスの影響を与えるためには一定の権威が必要ですし、権威を出すためには、デコボコした「人間性」は、むしろ障害です。生身の人間、豊かな生活をしている存在は、良い教師には見えてきません。愛する妻子がいて、温かい部屋とおいしい料理に囲まれて幸せであるという存在は、隠しておかなければならないのです。子どもが30人いて、その子どもの将来に責任を持つということは、その子の苦悩や悲しみをも背負うということです。教師という存在は、子どもの人生のために捧げるものです。教師という観点を突き詰めて考えていけば、阿久津先生のように24時間体制で指導にあたる、という心境になるはずです。勿論、それは極端な話だったのですが。重要なことは「切り替え」です。教師という存在になっている時と、家で素直な自分に向き合って幸せに生活している時とが、切り替えられなければなりません。子どもの目から、教師の個人的な生活は見えないようにしなければなりません。「先生は、君たちの人生だけを考えている」というパフォーマンスが必要です。現場の先生の多くはこの「切り替え」を行っています。ホンネの自分をさらけ出すことを出来るだけ回避します。殆ど全ての先生が、子どもたちの前で笑ったり、驚いたり、悲しんだり、喜んだりします。阿久津先生のように叱るだけではありません。しかしながら子どもの前で教師という存在に変身し、一つの演技としてそれを行っているという点では、多くの現場教員と阿久津先生は同じです。教師が自分のホンネをべらべら喋るというのは、教師らしさには欠けています。子どもが「うちのクラスの担任は友達のようだ」と勘違いすることはあっても、教師の側は、本当の友達になっているわけではないのです。教師という存在は、基本的には理想や規範の側に立つ存在なのです。

6.「現実をつきつけること」
では、教師は、理想だけを提示すればいいのでしょうか?「将来の夢が大切です」「思いやりが大切です」等といういわゆるキレイごとを言った時、子どもはどう思うでしょうか?「先生、現実はそんなに甘くないですよ~」なんて子どもが言ってくる。重要なポイントは、言葉として正しいかどうかではありません。先生の発する言葉に、厳しい現実を乗り越えるリアリティがあるかどうかなのです。阿久津先生の説教は、理想を掲げるというよりは、厳しい現実をぶつけるというものです。大人たちは自分のことしか考えていない、世の中とは、勉強したエリートだけが楽な生活をする。うわべだけ、事なかれ主義、等。それをぶつけていきます。子どもは、なんとなく現実の論理を肌で感じています。資本主義社会の「おいしい部分」だけを享受し、厳しい面を見ようとしません。子どもたちは、責任を他者に押し付けたり、権利ばかりを主張して責任や義務を引き受けないような、そんな姿になってしまっています。子どもとって最も差し迫った現実とは、私立中学と公立中学という格差です。その重い現実が目の前に迫っているのですから、出来るだけ分かりやすい形で浮彫にしていきます。「いいかげん、目覚めなさい」この目覚めるということの意味は何でしょうか?現実に向き合って自分で考え、立派な大人になりなさい、という意味です。子どもたちは、阿久津先生の二つの面を理解していきます。一つは、阿久津先生が子どもたちに厳しい現実をぶつけているという面、もう一つは、阿久津先生自身は、この現実に満足しているわけではなく、ただこの現実に立ち向かうように子どもたちを促しているだけだという面です。子どもたちは確かな自信を得ることによって、現実に立ち向かうという強い意志を持つに至ります。神田和美が「先生はクラス全員が幸せになれないと言いましたが、 私は、違うと思います。このクラス全員が幸せになれると思います」と阿久津先生に強く主張しました。神田和美の、自分のクラスを団結に導いたという自信に裏付けられた力強い言葉でした。

7.「様々な対立や矛盾を顕在化させること」
阿久津先生は、クラスの子ども同士、子どもと保護者といった、様々な対立を、わざわざ顕在化していっているようです。わたしたちは、一般的に、「あ、こじれそうだ」と思うと、トラブルが起こらないようにします。距離を置いたり、ホンネを隠したりして、落ち着かせようとします。(自分が落ち着きたい)なんとか回避しようとします。しかし敢えて阿久津先生はかかわりを強化させて、矛盾や対立を浮き彫りにする。ケンカや差別を助長しているわけではありません。かかわりを起こしていくのです。そして顕在化した上で考えさせようとするのです。追い込んでいき、かかわりと時間を与える。それによって、子どもたちが底力を発揮するのを待つのです。8.「集団を作り上げる実感、成長するという実感を得る」「進藤ひかる」は、成績の低い者が罰として雑用をするのはおかしいと思いました。最初にそれを進言した時には、たんに先生に対する反抗と受け止められてしまったのです。二回目に進言した時には、阿久津先生は「それはクラス全員の意見なのか?」と問いましたが、半分くらいにとどまっていました。三回目に進言する時には、クラス全員の了解を得て、班によって一週間ごとに振り分けを行い、「これでさせて下さい」という形で進言したのです。阿久津先生は「勝手にしなさい」「好きにすれば」と言い放ちます。(「勝手にすればいい」というのは、阿久津先生の「褒め言葉」です。)子どもたちは雑用をクラス全員で分担するということの重みを、1年近くかけて学んだのです。小学校5年6年生のころという時期は、集団の力を自覚する貴重な時期だと思います。教室の中で勉強する、生活するということは、無意識的に無自覚的に行ってしまいます。本来はそれではダメなのです。当たり前にやらされていることをいったん全てひっくり返してしまえば、それがなぜ必要であるかを考えるでしょう。一度ひっくりかえして、よーく考えるということで、子どもたちは学級集団を作り上げていくということに成功するのです。自分たちで作り上げたという実感を得るためには、一度ぐちゃぐちゃに崩壊し、バラバラになったり、危機的な状況を通過しなければなりません。そういうたっぷりの時間が必要です。先生が「いじめはいけません」「仲良くしましょう」とお話をしても、おそらく子どもたちの心には響きません。つまり子どもたちは、失敗の中から学ぶのです。ということは、最も理想的な学級になるためには、うまくいっていない失敗した状況という時期というものを、通過する必要があります。しかしこれは「賭け」かもしれません。ひょっとしたら子どもたちはこのまま全員学校に来ないまま、卒業を迎えるかもしれない。ひょっとしたら子どもたちはこのまま最後まで隠れていじめを続けるかもしれない。ひょっとしたら子どもたちはこのまま最後まで鬼教師に盲目的に従い続けるのかもしれない。出来ないかもしれない無理難題を与え、それが出来ることを期待しつつも、変化を待ち続ける。最後の最後は、子どもたちの力に任せるしかありません。助け舟を出したり、こうだよとあっさり教えてあげたりすることは、子どもの成長にマイナスです。現在の学校教育制度は、こうした失敗経験すら与えない。うまくいかずにどうしようと試行錯誤したり、対立と矛盾を前に困惑したり、そんな時期は、出来るだけ無い方がいい。そんなふうに思っているようです。ちょっとはみ出してしまえば、すぐに教育委員会や保護者がやってきて、手を加えていきます。組織であることの弊害かもしれません。

9.「教師という存在は一つのコマ」
一般的に子どもは、勉強等の辛いことはやりたくない、楽しいことをして遊びたい。嫌な現実からは逃避したい。プライドは守りたいけど、失敗は隠したい。そんな存在です。その存在に対して、全く相反する考えをぶつけていくのが教師なのですから、そもそも、教師という存在は、嫌われるべき存在なのです。「あの先生はイヤなやつだ」「うるさいから嫌いだ」と言われているくらいがおそらくちょうど良い。阿久津先生は、ここでは一つのコマのようなものです。悪魔という存在で、子どもたちの前に登場し、あれこれ無理難題をつきつける。無理難題が、目的なのではありません。その教師をめぐって子どもたちが反論したり意見を出したり、試行錯誤したりする。その結果の全体が、真の目的なのです。子どもたちに華を持たせるために、教師が影の部分になるのです。自分という存在が捨石のようになり、子どもたちが前へ前進するように期待するのです。まるで悪魔の弁護人(Devil's Advocate)です。「どーだ、俺、すごいだろ?」といった自分本位な考え方は、教師には向いていません。自分だけが輝いていたいと思うような人間は、教師には向いていません。

 以上、整理してきました。確かにこのドラマは一見すると極端すぎる映像、過激な内容を含むものですが、よくよめば、最も称賛に値するような教師像を提示していると思います。私は思うのです。学校現場の先生方は、多かれ少なかれ、阿久津先生の「要素」を持っています。真剣に子どもと向き合い、真剣に取り組めば取り組む程に、阿久津先生の「要素」に近づいていくと思います。阿久津先生の「要素」は、「教師らしさ」という定義に相当すると思うのです。たんなる感動ドラマとしてのみならず、教育論としてもとても興味深い、名作ドラマです。(2005年製作、日本テレビ)
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Posted on 2014/01/11 Sat. 00:19 [edit]

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