「終戦記念日に黙祷すること」「祈ることで平和がやってくるのか」  



わたしたち日本人は、キリスト教のような一神教ではないのですが、

あらゆる場面で祈ることが多いようです。

受験で祈ったり、クイズ番組で答を発表する直前に芸能人が祈ったりします。


黙祷や祈りについて考えてみたいと思います。






1.

自分のよく知る人物が、命を失う。

命はそこで消えてしまうが、何かが残るような気持ちになる。

おそらく「魂」と呼ぶものです。

やりたいことが出来ないままに死んでしまったのではないか?ならば

そのやりきれない思いに対して、

「祈る」のです。


安らかに眠って欲しい。

魂との対話です。

そんな自然な気持ちです。

(ごんたろうも、家族が死んだ時にはそんな気持ちになります)



祈るという行為で、

自分自身の心を整理したいのかもしれません。



死んだ魂が、

本当に満たされた状態になり、

安らかな気持ちになり、

ゆっくり時間をかけて消えていく。

それを目指しているのかもしれません。



いったんここで区切りをつけて、

次へ進もうという積極的な意思も含まれているように思います。







2.

わたしたち日本人の多くは、この「感情」を、

見ず知らずの他人とも共有しようとします。

災害で多くの人々が亡くなった。

交通事故で幼い子どもが、まさにここで、亡くなった。

そんな時、わたしたちは、その人のことをよく知らなくても、

なんとかその人の魂に触れて、安らかに眠ってもらうように、

祈ります。

自然に、そんな気持ちになります。



ところが、

なぜか、その同じ日、同じ時刻に、

みんなで一緒に「祈る」のです。

震災発生時刻に、みんなで集まって、祈ったりします。

みんなを集めて、呼びかけて、一堂に会して、

あの時は大変だった、今日まで頑張ってきた、等と話をして、

同じ時刻になったら、黙祷をします。


あれは、なぜでしょうか?

ごんたろうはよく分からないのです。


「私」と「死んだ方」との間の関係は分かります。

しかし祈っている「私」と、隣りで祈っている「他人」との関係は、よく分かりません。



一人で祈るのはイヤなのか?

みんなで共感したいのか?


儀式的ではないか?

表面的ではないか?

まるでイベントです。

そういうイベントをして、祈っているのが自分だけでないのだ、

ということを知ろうとします。




当事者が自然な気持ちで祈るのは分かるのです。

当事者ではない人々が号令をかけて一斉に祈る、というのが「変」だと思うのです。




この儀式は、狭く深くではなく、広く浅く、なのです。


死んだ人のこと、その人の人生とか、境遇とか、性格とか、生活とか、

それらを知るということではなく、

「とにかくたくさんの人が死んだ」ということに目を向けて、祈るのです。


太郎さんが死んだ、花子さんが死んだ、

だから悲しいというのではなく、

いつの間にか「たくさんの日本人が死んだ」

というふうに、抽象的なイメージに向かって、

形だけでも、

(あるいは形で!)

祈ろうとするのです。





「みんなで祈った」ということで、

達成感を味わいたいのかもしれません。







これは偶像崇拝?

みんなで集まって、一斉に黙とうをささげる。

私たちの時間を、死んだ人々の魂に向けて捧げる。






3.

この儀式の意味を、

違った角度から考えてみましょう。



悲しい出来事を目の前にすると私たちは辛い。

辛くて生きていけない。

だから「祈る」


そして「納得する」



その行為が終わった段階で、

心のどこかで、

「よし」


「これでよい」


「私はやるべきことをやった」


という自己満足を得ると思う。



「祈る」

「納得する」

「忘れる」

また、カレンダーを見る。

同じ日、同じ時刻が近づいてくると、


「思い出す」




これは、過去の辛い体験を、

時間をかけて、ゆっくりと、「忘れていくための儀式」なのです。

辛いトラウマを、カウンセリングを受けながら、

自分の中で消化していくのと似ています。

思い出して、涙して、そして忘れる。









4.


空襲や原爆などの記念日にも、


あちこちで黙祷が捧げられます。


恒例行事になっています。


遺族(当事者)が祈るのは、分かります。

しかしそれをみんなで一斉に祈るというのは、どういう意味でしょうか?




戦後生まれの国民にとっては、戦争での死とは、知らない人の体験談です。

本来は、もっと、彼らの人生や彼らの状況を知る必要がある。

よく辿っていけば、自分の身内にも戦争で死んだ人がたくさんいるはずなのです。

赤の他人であっても、その人の人生について知ることができれば共感できます。

知った上であれば、

自然に、

悲しい気持ちになると思うのです。





しかし、

平和への祈りは、

個別の状況に対して祈るのではなく、日本人に対して祈る、のです。

一人で祈るのではなく、みんなで一緒に祈る、のです

こうして終戦記念日の黙祷は、いわゆる国家的イベントになるのです。



「よし!祈りを捧げよう。」




誰に対して?



折鶴なんか折っても、平和はやってこない。




「私たち国民は鶴を折って祈っています。政治家の皆様、よろしく」

という態度を取ってしまえば、

政治家はこういうでしょう。

「世界平和は大切です。

 しかし、これまで最善を尽くしてきましたが、もう我慢できません!」

といって戦争になってしまいます。


人々の黙祷儀式は、

「平和」イコール「祈り」という意識の問題に還元してしまうので、

意識は、政治家たちによって、簡単に切り替えられてしまうのです。




尖閣問題で中国人が日本の商店を破壊するシーンがテレビで放送されました。

中国や韓国に対する嫌悪感を持つ人は増えてきていると思います。




平和の祈りは、



いとも簡単に、忘れてしまいます。














5.



さて。

わたしたちは、


原爆の様子の写真や話を聞いて辛い気持ちになる。悲しい気持ちになる。

その気持ちを、どこかに落ち着かせたくなる。

不安定なのです。

祈ることで安定しようとします。

ホッとします。



そして忘れます。


祈ることで、

自分自身の心を整理し、落ち着かせようとするのです。


こうして、毎年恒例の宗教的な行事となります。



これでいいのでしょうか?



忘れてはいけないのです。


戦争は、人々の努力で無くすことができるのです。


いつまでも、事実を記憶し続けることが大切なのです。


戦争の惨状を思えば、

怖くなったり、不安になったり、悲しくなったり、します。

辛いです。



この状態をいつまでも記憶しなければならない。


祈ってしまうと、

落ち着いてしまうのです。



死んだ魂は、安らかに眠って欲しいのですが、

今、この時代に生きている私たちは、

落ち着いてはいけないのです。





明日にも戦争が起こるかもしれない。

どうしよう、

どうしよう、

そんな心境で生きるべきなのです。











6.

戦争にならないためには何が必要でしょうか?

国際関係、外交、そして社会福祉です。

武器を捨てさせて、治安を回復し、生活を保障することです。

全て一つ一つの地道な努力です。

自分の精神と死者とが対話しても、平和はやってきません。



いま一つ重要なこと。

戦争を回避するためには、世論や熱狂にブレーキをかけることです。

それは、わたしたちが、過度に、ビクビクしないことです。




10センチのヘビは、しょせん10センチのヘビです。

  竜でも怪獣でも、サリンでも、放射能でもありません。

過大な恐怖心が、軍備拡張と武装をすすめます。





おじいちゃんが戦争で亡くなったのは悲しいことです。

遺族は、おじいちゃんの魂が、本当の意味で、安らかに消えてしまうまで、

遺族は、祈り続けるでしょう。

それを批判するつもりはありません。




しかしそのことと平和は別個です!



「おいおい、中国が日本を侵略するかもしれないよ!

 韓国が!

 北朝鮮が!日本を危機に陥れようとしているよ!

 立てよ!国民

 戦え!国民」

「国益を考えない国民は、非国民だ!日本を去れ!」



こんな人がたくさんいるのです。


わたしたちが平和を願うのであれば、こんな言う人を、説得する必要があります。


悲しみを10倍にして、怒りを100倍にすると戦争になります。

なんとかしてそれを避けるべきです。



終戦記念日に、思い出したかのように、黙祷を捧げている場合ではありません!




というのがごんたろうの意見です。
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Posted on 2013/09/13 Fri. 23:53 [edit]

category: 社会・教育

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