『はらっぱ』感想  

(作:神戸光男、絵:西村繁男、童心社、1997年)戦前から戦後、現代にいたるまで同じ場所を描く。歴史と人々の生活を対比させて眺めよう。戦前の風景と人々の生活。戦争に突入した際にも、子どもたちは原っぱで楽しそうに遊ぶ。しだいに戦況が悪化してくると生活は苦しくなる。戦後、貧しい時代に子どもたちは再び明るく遊びだす。経済成長を遂げ、ビルや道路が整備され、ついに子どもたちの遊び場はなくなる。戦争、生活、子どもの存在が、歴史の重みの中で描かれる。喜びと悲しみ、会話と息遣いが凝縮される。個人は自由に生きるが、多くの人々と同じ時間と空間を共有し、そして時代を背負う。
 同じ場所を描いています。1934年頃の風景。町のかたすみの、小さなはらっぱ。上空から撮影したような風景です。良く見ると犬の散歩、ご老人の会話、牛乳や納豆を売る人、洗濯する人、たくさんの人々の生活が描かれています。同じ日の午後には、子どもたちが原っぱで遊んでいます。縄跳びや、チャンバラごっこです。夕方には、夜勤の工場労働者たちが歩き出します。一日でも、これだけ風景が変わるのです。人々の生活がよく描かれています。1936年の、夏祭りの様子 文章には「戦争の準備をしている頃」とあります。人々は楽しそうです。1938年の、はらっぱの様子、文章には「とうとう日本は中国に戦争をしかけました」とあります。一部には戦争を思わせる部分もありますが、それでも人々は凧をあげたり、さるまわしを楽しんだりしています。1939年の、相撲大会の様子。1940年の、出征兵士を送る儀式の様子。戦争の色が濃いのですが、それでも子どもたちは楽しそうに遊んでいます。1942年、防空演習の様子。文章には「日本は米英との太平洋戦争をはじめました」とあります。1944年、負け戦が続き、食べ物がなくなってきました。そこではらっぱを耕してイモやカボチャなどを作っています。1945年、爆撃を受けて、大火事です。翌朝になると、あたり一面、焼け野原になっていました。
 終戦。1949年。物資は乏しいけれども、新しい国づくりを目指して頑張っている時代。はらっぱでは、子どもたちが遊んでいます。1953年、はらっぱでは、夜に巨大スクリーンをはって、映画会をひらいていました。文章には、朝鮮戦争の記述があります。1961年の青空まつりの様子。文章には安全保障条約の改定をめぐる議論について記述があります。1970年、はらっぱの一部に大きなマンションが建てられました。共同市場だったところにスーパーマーケットが建ちました。文章には、東京オリンピック、高度経済成長の記述があります。現代、ビルがたくさん立ち並ぶ風景。狭いながらも子どもたちが大勢、はらっぱで遊んでいます。文章にはこうあります。「町は日に日にかわっていきます。道路はととのい、ビルがそそりたって、コンクリートだらけです。 はらっぱもへり、子どものあそび場ではなくなりそうです。 ほんとうはこんなふうに、おもいっきりあそびたいはずなのに」この文章は、重要です。描いているのは、コンクリートだらけのまちの中で子どもたちが遊んでいる風景です。しかしこの文章から言えば、子どもたちはここで遊んでいない、遊びたいはずなのに、というニュアンスです。ここだけは願望が描かれているように思います。どんなに貧しくても、どんなに殺伐としていても、子どもたちはいつの時代も元気に遊ぶような存在でした。世の中が平和になり、経済的に豊かになった一方で、子どもたちがはらっぱから消えたとなれば、それは皮肉なことです。
 この絵本では、解説のような文章は大きな意味を持っています。もし、この絵本が絵だけを並べたとすれば、読み手が自由に解釈や思いを持つことが許されるでしょう。文章が入ることで、「読み方」が制限されてしまう。しかし一方、文章があることで、世界の出来事や政治のやりとりを頭に描きながら絵を読む。という読み方が可能になる、とも言えます。あまり制限しすぎると読み手の可能性を塞いでしまい、かといって絵だけを並べても、肝心の部分が伝わらなくなる。そうした微妙な部分での絵本だと思います。さて、歴史とは何か?時間が流れていく。美しいもの、素晴らしいものも、その中には含まれているでしょうが、醜いもの、見たくないもの、差別、犯罪、戦争なども含まれています。そこには因果関係も含まれるでしょうが、全てが論理的な整合性があるわけではありません。一つひとつの事件、出会い、突発的な事故、喜び、悲しみ、あらゆる事象が相互に影響し合いながら、時には誰も気付かないことも起こりながら、時間だけが淡々と進んでいく。そんなイメージだと思います。
 この絵本は、視点を一点に固定しているがゆえに、時間と歴史を描くことに成功しています。わたしたちは、歴史を眺めること、歴史を認識することができます。すると次に、その歴史を反省したり、歴史を継承したりという、「操作」を、試みるようになります。「もしあの時、こうしておけば、あんな事態は避けることが出来たのではないか?」次の歴史を作っていく「主体」として、過去の過ちを繰り返さないように、あるいは良き伝統を継承し、発展するように、わたしたちはどうすればよいかを考えようとします。政治的右翼の人々は過去の継続性を強調し、伝統文化の発展を願うでしょうし、政治的左翼の人々は過去の過ちを反省し、新しい国づくりを願うでしょう。わたしたちは、歴史をぎゅっと手にとり、がっちりつかんで、振り払うような、そんなことをしようと思います。国家という、まるで一つの装置が存在するかのようにとらえ、人間がその装置をコントロールしようとする。しかし、思うのです。例えば、郷土愛が善いもので、戦争が悪いものだとしましょう。過去には両者が密接に絡み合って、とても分断できないような形をしているのです。「あれは欲しいけど、あれはいらない」等という操作が、はたして可能なのでしょうか?歴史を反省し、リセットするということは可能でしょうか。それはある程度は、可能でしょう。私たちは自由な主体なのです。しかし、ある程度以上のことは無理です。むしろわたしたちの無力さを自覚する必要があります。
 わたしたちは歴史から何を学ぶのか?わたしたちは歴史から学べるのか?それらは、結局のところ、分かりません。人間はある程度は歴史的必然に支配されていて、ある程度は歴史から自由なのです。はっきり分かるのは、過去はそうであったという事実だけです。歴史は私たちに事実をつきつけます。このこと自体が残酷なことだと思います。この絵本は、善いか悪いかといったことは、横に置いておき、時間の流れで延々と同じ場面を写しています。この絵本の作者たちは、「歴史を反省し、未来を創造せよ」というメッセージで描いているのかもしれません。しかしこの絵本は、結果的に、「歴史を反省し、時代を作り上げていくということは、出来そうでもあるし、不可能そうでもある」という、そんな曖昧さを伝えてしまっている、私は思います。
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Posted on 2013/04/25 Thu. 22:53 [edit]

category:   3) 歴史の流れ

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