『ちいさな くれよん』感想  

(作:篠塚かをり、絵:安井淡、金の星社、1979年)本書では、黄色のクレヨンが最後まで黄色のクレヨンであろうとする。ゴミ箱から抜け出して靴や玩具を黄色に塗る。まっすぐな気持ちで奉仕し、悲しみは見せずに死んでいく。そんな姿を見て「美しい死に方だ」と感激してよいのだろうか?この姿をモデルとして子どもに見せてよいか?それは怖いことではないか?黄色のクレヨンが赤色のクレヨンに憧れるとか、死にたくないと逃亡するとか、あるいは黄色でないものを黄色に塗ってしまうとか、そういうはみ出し方、目的からの逸脱があってこそ人間である。そっちの方に人間としての美しさを感じる。
 「素晴らしい」「感動的だ」という感想が多いようです。もう十分に肯定的に評価されているということですので、一人くらいへそ曲がりがいても良いと思います。以下、否定的な感想になりますが、ご了承下さい。まだ十分に使えるはずのクレヨンが、捨ててあります。きいろのクレヨンが、くずかこがら飛び出します。「ぼく、まだ かけますよ。まだ、きれいに ぬれますよ」そうしてクレヨンは、自分で役に立つことがあるはずだと考えて、外の世界へ飛び出すのです。靴のプリントが薄くなっていたので、クレヨンで綺麗に塗ってあげました。玩具の黄色の自動車が、汚くなっていたので、クレヨンで綺麗に塗ってあげました。そのようなことを何度もやっていると、しだいにクレヨンは小さくなってしまいます。心配してくれる人もいます。しかしクレヨンは、「いいんだよ。ぼく、ちびでも いろんな やくに たって うれしいよ。」と言います。日が暮れて、夜になりました。クレヨンは、今にも消えてしまいそうなお星さまを見つけ、「ああ、ぼく。おほしさまを ぬって あげたい」と言います。クレヨンに大きな力が湧いてきて、まっすぐ、おほしさまに向けて、はじけるように、飛んでいきました。誰かの役に立ちたいという、クレヨンの素直な気持ち。まだまだ、最後まで十分に役に立つのだという姿、途中で捨ててしまった人間に対する問題提起。などはよく描かれていると思います。物を大切にする、ということ。それを訴えているのでしょう。物を大切にしない子どもに対して、「クレヨンが泣いているよ」等といい、それによって物を大切にするという道徳性を習得させようとしているのです。
 クレヨンの「善さ」とは、何でしょうか?周囲を色で染め上げて、作者が自分の心境や世界を創造していくというものです。人々が喜ぶ姿を見ることが、クレヨンにとっては最高の幸福なのでしょう。ですからクレヨンは、自分の「善さ」を全うして死んでいったのです。しかしごんたろうは思うのです。擬人化されたくれよんが、周囲の人々を幸せにしていき、最後は消えていくのです。自分の身体を削っていき、最後にはゼロになってしまうのです。これでは、まるで、神風特攻隊ではないか?この絵本では、自分の身体が残りわずかになってきて、どことなく悲しい雰囲気を醸し出すのです。周囲の人々を幸せにしながら、自分自身は死んでいく。そんな姿を見ると、多くの人々は、「君は、死なないでくれ」という気持ちになるのです。そのジレンマ、葛藤を、わざわざ感じさせるように描いているのです。多くの読者は、こう思うのです。「かわいそう!」クレヨンの死=悲しいこと、というふうに描いているのです。その上で、死んだというのは悲しいことであるから、お星さまをぬる、という美しい話に切り替えているのです。全部使ってくれてありがとう!!!等といって満面の笑みを浮かべて天国へ行く。というシーンはありません。おほしさまに向かって飛んでいく、というシーンで終わるのです。
 最後のシーンをぼかして描き、読者に何かを感じさせようとしています。悲しい話だけど美しい、という描き方をしているのです。自分の身体を否定し、それを美化する。こうした思想は、本人が勝手にやる分にはいいのかもしれませんが、それを一つの素晴らしい物語として位置付けてしまうことは、とても危険だと思うのです。もしこの絵本が、<自分はクレヨンだけれども、色を塗る以外のこともやってみたくなった>という内容であれば、ごんたろうは、とても共感できます。しかし<自分はクレヨンなので、最後までクレヨンとして生きていき、クレヨンとして死んでいく>といわれると、怖いのです。確かに、物には目的があります。釘の目的は、木材をしっかり固定することにあります。イスの目的は、人間を安定的に座らせることにあります。釣り竿の目的は、魚を釣ることにあります。車の目的は、中の人間を安全に保護し、目的地まで運ぶことにあります。そういうふうに考えると、人間にもそのまま当てはまりそうなのです。しかしそれが最も怖いことなのです。例えば、私が結婚して、相手の妻のことで愚痴を言う。すると隣人が「君が自分から好きで結婚したのだろう?だったら、文句を言っちゃいけない」等というのです。
 同じように、君は父親なんだから、父親らしく振る舞うべきだ。君は日本人なんだから、日本人として振る舞うべきだ。人間ってそんなにうまくいくものでしょうか?当初の目的からずれたり、全く逆のことを考えたり、振る舞いと外見が一致していなかったり、失敗したり、困惑したり、そういうことを楽しむことが、最も人間らしい行為だと思うのです。例えば漫画家になりたいと目標を設定した人間は、明けても暮れてもそのことばっかり考えるというのは、はやりダメだと思うのです。人間というのは、当初の目的や与えられた課題から、少しずつ外れていくような、そんな存在です。で。それでいい、と思うのです。この絵本は、クレヨンを人間であるかのように扱っておきながら、ロボットのような描き方をしているので、ごんたろうには、共感できません。以上、へそまがり、ごんたろうでした。
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Posted on 2013/02/26 Tue. 00:10 [edit]

category:   4) 幸福とは

thread: 絵本 - janre: 本・雑誌

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コメント

返信ありがとうございます

三島氏は、人間は自分の為だけに生きられる程強くない。大義が必要だと語っていました。
戦後の民主主義はそれを失わせてしまったと嘆いています。

生きることに虚しさを覚えつつも、誰よりも懸命に、賢明に生き、散っていきました。

彼の心中を察するに、止むを得ない選択だったのかもしれませんが、大変残念なことです。

URL | ベラスケス #79D/WHSg
2013/04/25 01:50 | edit

コメントありがとうございます。

男の美学。なるほど、プライドとかタテマエとかを大切にするのは、たいてい男です。自分は日本人なのだから日本人として云々というような言葉は、一見するとカッコいいように見えるのですが。
怖いことです。ごんたろうにもそういう面があって、少し恥ずかしいです。
三島由紀夫も、新撰組も、特攻隊も、戦国武将も、みんな似ているかもしれませんね。

URL | ごんたろう #79D/WHSg
2013/04/24 21:21 | edit

大義

クレヨンがくずかごに捨てられているという冒頭に、衝撃を受けました。

使いかけのクレヨンを懐かしみ、子供の時分に戻って、お絵描きをするという展開なら、素直に読み進められそうですが、最初から哀しみを帯びています。

とにかく、他に尽くし続け、最後は消えかかる星に向かうところは、ご指摘の通りだと思います。

自己犠牲の塊のような存在です。

あまりにも救いがない。

三島由紀夫氏は、戦争に行けなかったことに劣等感や後悔の念を抱き続け、類稀なる文才で成功をおさめた自身に絶望し、自決しています。

民主主義を痛烈に批判している自分が、その社会で成功をおさめた矛盾に耐えられなかったのです。

彼は、お国の為に死にたかったのですが、それが出来なかったが故に名声を得た。

くずかごに捨てられたクレヨンを、戦争に行けなかった人とするならば、我を忘れ、必死に他に尽くすが、どこか満たされない。

消えかかる星を救おうと命を賭す。

そう当てはめてみると、男の美学を描いた作品のように思えるのです。

URL | ベラスケス #79D/WHSg
2013/04/23 20:24 | edit

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